黒沢明監督の凄さ
学生時代の一時期、私は脚本を書くことに夢中でした。テレビ局に就職をしてドラマを作りたいと思っていました。 だから脚本片手に映画もよく見ました。 すると映画監督の腕がよく分かります。脚本通りに作っている人と、脚本を超えて内容をふくらませている人とがあります。
感服したのは黒沢明監督です。 例えば 「椿三十郎」の始まりは、脚本では素浪人が遠くから歩いて近づき、アップになったところで、 タイトルを出す。というようになっています。ところが、黒沢監督は素浪人の歩く後ろ姿で、それも大きな刀を肩に乗せて、肩から上だけをアップにして始めました。
椿三十郎に扮する三船敏郎がズンズン歩くので、 画面は上下に揺れます。 観客はまるで三船敏郎の背中におぶさって前方を見ているような錯覚に陥ります。
力強く歩く音楽に乗せられて、観客は始まりから主人 公の背中のぬくもりを感じ頼もしく思ってしまいます。そして三船敏郎がほどけかけた後髪をボリボリと掻くところで、タイトルが堂々と出ます。
脚本をあらかじめ読んでイメージしていただけに、 始 まりから強烈なショックで、あとは夢中になって観たのを覚えています。
その黒沢監督の作品に「切腹」 という名画がありました。 江戸時代も中期になって戦さがなくなり、職につけなくなった武士の悲哀を描いた作品です。
ある武家屋敷に一人の浪人が訪れ、武士として人生を送れないことを嘆き、切腹 をして完結したい、 ついてはお庭を拝借したいと頼みます。
屋敷の主はその武士精神に感心をして、切腹するには及ばないと何がしかの金子を与えます。 その話が生活に困窮している浪人たちに伝わります。 そこで浪人たちは、次々と武家屋敷におしかけ、切腹したいと申し出ては金をせしめることに味をしめます。
そのような風潮を苦々しく思っている、とある武家屋敷の出来事で気の弱そうな 若い浪人が切腹をしたい、と訪れます。 家族に食べさせる明日の米がなくて、 窮余の策でしたが、 浪人の予測に反して主はどうぞと庭に招き入れます。 申し出たからには切腹をしろ、という訳です。 浪人の刀が竹ミツであることを見越してのこと です。 追いつめられた浪人は、竹ミツで自分の腹を突き、無残な死を遂げます。
刀を命と考えていた古武士の老義父は、三船敏郎が扮しているのですが、やはり 傘のノリ付けの内職をしている浪人です。 娘ムコが刀を売ってまで家族を支えようとしていたことに愕然とし、悟るところあって武家屋敷に乗り込みます。
主は、切腹したいのならどうぞと庭に招き入れますが、 老義父は本物の刀を前に、 自分の愚かさを恥じ、竹ミツの浪人を武士の名のもとに、切腹させることこそ 武士道に反することではないかとなじります。 そして主のマゲを切り取り、 暴れまわり屋敷の奥座敷に恭しく飾ってあるよろいカブトの前で古式通り切腹をし、壮絶な最後をとげます。
物語はそれで終わりですが、 黒沢監督がその後にちょっと付け足したシーンが素
晴らしい。 庭そうじをしているおじいさんが、後始末をしながら落ちているの マゲに気づき、 ひょいとつまんでゴミ箱にボイと捨てる。 その場面に武家日誌をつけている主の声がかぶさります。 「本日の午後、 浪人が訪れる。 何事もなかった」と。
私はこのラストシーンを観た時、 歴史の文献は表面を鵜呑みにしてはいけないのだ。その時代背景、書いた人、書かれた状況から、その奥に潜む真実を見抜かなければならないのだ、と痛切に感じました。
ステレオグラムという、平面的な絵が左右の目の焦点をずらすことで、立体的に見える見方が数年前に流行しましたが、本音をさぐるということは、このステレオグラムに似ています。 この絵は目の焦点を合わせて普通に見ますと、 模様がゴチャゴチャとして何だかよく分かりません。 ところが絵のもっと奥の方をみるようにしてボンヤリと絵を見ると、 模様の中から例えばウサギだとか、 ハートだとか、 文字だとかが立体的に浮かび上がってきます。
ボディートークでは言葉の奥に潜む息こそが、本音を表すと言っていますが、言 葉の表面上の意味だけにとらわれていれば、本音は見えてこないということです。画家が描く対象を目を見開いてしっかりと見るというよりは、 半眼にして、より深い姿を見ようとするのも同じことです。
映画も、そのものだけを見ていれば、 私はひょっとして黒沢監督の凄さに気付かなかったかもしれません。 脚本にちょっと目を通すだけで、 黒沢監督が意図するものがより鮮明に見えてくることが面白く、 私はそれからは意図して、物事の奥にあるものが何であるかを見るようになりました
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