家庭内暴力は何故生まれるのか。 更に親子の対立が何故殺人事件にまで発展したのか。引き続き、この問題をボディートークの見地から解明しようと思う。
殺された息子は二十三才になるA青年である。大学は一年だけ通い、後はアルバイト生活に四年が経過していたようだ。殺害さ れる一年ほど前から家庭内で暴れ出したということだが、A青年が狂暴な性格であった訳ではない。むしろ友人間では誰からも愛される気さくな人柄であったようだ。
その彼がどうして冷蔵庫を ひっくり返すようになったの か。それは彼の両親に対する 悲痛な叫びの表現である、と私は考える。自分の生き方を認めてくれない父と母に対して、話し合いでは埒があかないもどかしさが積もり積もった上での最後の手段なのである。その 証拠に彼は社会に対して暴力的なのではない。ただ父と母だけを困らせる方法をとっているのだ。
A 青年はプロのミュージシャンになることを夢みていた。しかし両親は、彼が四年制の大学を卒業することを最良の道と考えていた。
双方は互いの言い分を認めないままに日々を過ごしていたいの だろう。そうすると「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の例えのように、両親にとって息子の生活態度その全てが気に入らなくなる。きっと母親は息子のすること為すことことごとく気に障り、 言わなくてもいい些細なことにまで文句をつけていたのではないか。あるいは文句を言わないまで も、気に入らないという重い息をあらわにしていたのではないか。
実はここに大きな擦れ違いがある。A青年は体は大人であっても精神的にはまだ子供であった。 親の元を飛び出す自立心はまだ育っていない。自立していない子供にとって、親が自分を認めてく れるという絶対的承認は欠かすことのできないものである。彼の場合はこれが得られなかった。
親の絶対的承認ということは言葉を変えて言えば、親が子供の心に焦点を当て真正面から共感するということである。前回述べたデパートの自動ドアで言えば、子供のビックリの息に親が気付き、その息をまず共有するということである。
従って、A青年がミュージシャンになるということを親が認めるという以前の問題なのである。つまり親の側に「なるほど、お前の主張する生き方も一理あるね」という共感がまず必要であったのだ。その上で反対すればよかったのだ。
前回の自転車の母子で言えば、子供が「降りたい」と 言った時、母としては「どうして?」と尋ねる心の余裕がまず大事であったのだ。
かくしてA青年と両親との心の擦れ違いはますます大きくなる。彼にとっては親に文句を言われる毎に、自分が承認されないという切なさが積もり肩身を狭くして息を詰め始める。
ちょっとし た日常的な小言にでも感情がウッセキし、息が極度に詰まった時、彼は止むに止まれず家具を壊す。ところが両親は彼の心に直面しないで家庭内暴力という、この現象の方に動転してしまっていたのだ。 幼ければせいぜい駄々をこねる程度で済むのだが、スポーツマンのA青年が暴れれば、それは想像に余りある。
しかし本質は、親にこっちを向いてほしいという子供のアッピールなのだ。
「目には目を、歯には歯を」という対等の被害であれば親も納得しただろうが、「いつまで寝てるの? 早く起きなさいよ」と言ったとたんに電話が飛び、冷蔵庫がひっくり返るようだと、母親は異常な恐怖感を覚えて、息子をどう扱えばいいのかわからなくなるのは当然である。
言い知れぬ恐怖が一年間も続いたからこそ、 母親はモデルガンの柄で息子を何度も殴打したのだ。
また教育者としての実績もあり評判の高い父親は、ひとしお肩身を狭め極度に息を詰めていただろう。だから、暴れまわる息子を前に思わず包丁を振ってしまったのだ。余裕があれば善良な人間は人を殺すことなど出来ないし、愛 する息子であれば尚更である。
このような不幸な事件を未然に防ぐにはどうすればいいか。次回はボディートークによるカウン セリングの方法を述べよう。
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