異和感があると相手と距離保つ
本音は無意謙下の行動に現れる。意讃でどんなに隠そうとしても言葉の端々や何気ない仕草にポロッと出てしまう。憲讃でカバーできるのは所詮、達前であって、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、なのである。
例えば二人、並んで歩くとしよう。相手が自分を嫌っているか、好意を持っているかは足を運ぶタイミングに現れる。然り気なく 自分の歩くテンポを変化させて、相手がそれにどのように対応するかを調べてみれば判る。
好意を持ってくれている場合は、何の躊躇もなく変化に応じてくれるので、共に歩いていで も疲れない。タイミングが自然に合うのであるc 恋人の場合は更に積極的にお互いのタイミングを合わそうとするので、気が気を高め合って足が軽くなり、何時間でも歩ける。
反対に謙悪感を持たれている時は大変だ。一歩一歩確実にタイミングをズラしてくるから、お互いに足の運びは重くなる。だから百メートル歩くのでも疲れる。階段を登る時は更に顕著
だ。同時に足を上げてくれれば楽に登れるのに、ほんのわずかずつ遅れて上げてくるものだから、 まるで相手を引きずって登るみたいなものである。もちろん相手はわざと遅らせているのではなく本人も気付いていないのだ。
つまりこのような歩くタイミングは、良きにつけ悪しきにつけ無意識の感情の中でコントロールされている。即ち好意を持っている人の時は絹和感を楽しみ、嫌悪感を持っている人の時は異和感を持ち続けることで相手との距離を保っているのである。
では、韻和感や異和感がどのようなものであるかを体で直接、確かめてみよう。両手を合わせ 指を組んでみる。この時、左右どちらの観指が上になっているか?
手の組み方は遺伝によって決定されている。右手の親指が上になれば優性遺伝。左手の親指が上になると劣勢遺伝である。人は各々の遺伝に従って何の矛盾なく自分の組み方をするので、手と手はなじみ合って親和感がある。そこで手を組み讐えて、遣伝ではない方でギュッと握ってみよう。
こうすると手にたちまち不快感が走る。これが異和感である。
嫌いな人と接する時、人は無意議の中で自ら異和感を作り出す。自ら作り出すことで自分自身を納得させているのである。
この法則を私の友人に話したところ、彼は「なるほど」と深くうなづいた。というのは彼にはイヤミな上司がいて、叱言がネチッこい。そこでお叱りを受ける時は、遣伝ではない方の手の組み方をわざとしていたのだ。そうするとその時間が耐えられる。
ポディートークでは、この無意識下の親和感や異和感を意識のレペルにまで高めて積極的に活用する。
机運びで息を合わせる
活用の一例を述べよう。社員研修で「長机を二人で運ぶ」というシーンである。まずは何も説明で机を運んでもらう。早く済ませようと焦る組もあるし、イヤだなあ、とクズグズする組もある。スムーズに落ち着いて運ぶ組もあるが、私から見ればそれでも上手いとは言えない。実は、机運びはボディートークを活かす絶好のチャンスなのである。自分の感覚を研ぎ澄ます実践の場なのである。
相手が机を運ぶタイミングは、机を通じてこちらに伝わってくる。そこで、持ち上げる瞬間や手の高さ、歩き出すタイミングやテンポ、運び終わって机を下ろすタイミングなどをピタッと一致させる。そうすると相手はまるで自分一人が机を運んでいるような錯覚さえ覚える。そういう説明をして机運びをしてもらうと会場の空気は静かに、和やかなものとなる。みんな机から伝わる感覚と自分の動きに集中し始めるからである。
相手の一挙手一投足に集中をして、タイミングをビタリと合わせる成功感を楽しむと、時の経つてれ、次第にテンポも上がってくる。そうすると息が弾んできて楽しくなる。あと机をいくつ運ばなくてはなどと考えていない,タイミング合わせを楽しんでいるうちに、何時の間にか終わってしまったという具合である。
「 息が合う」チームワークは、このようにして 身に付いてくる。
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