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おにぎり型よりもおむすび型人生を

おにぎりとおむすびの違いを知っていますか? 当た り前のことだが、まず呼び方が違う。でも呼び方が違う ということは、中身について重大な意味があるのだ。す なわち、そのことに対するイメージが異なるのである。

おにぎりとおむすびで言えば、実は作り方のイメージが まったく別なのである。おにぎりの作り方は「握る」。おむすびの作り方は 「結ぶ」。したがっておにぎりはギュッと握るし、おむすびはキュッと結ぶ。中身はどう違うか。おにぎりは中までギュッと押さえるか ら、全体的に固い。それ に反して、おむすびは温 かいご飯を手早くキュッと外側だけ固めるから、 中身は柔らかいご飯のままである。

どちらがおいしいか。それは好みの問題であるから、 どちらとも言えないが、人間の体のあり方については、 おにぎりのイメージで生きるか、おむすびのイメージ で生きるかは大きな開きがある。結論を先に言うと、おにぎり型人生はガンバリ体 であり、おむすび型人生はスッキリ体である。そして、地球に生きる生物としての 人間のあり方は後者なのである。

おむすびの元は温かいご飯であるが、人間の体で言えば温かさとは血液の循環で あり、それ故の息の温かさである。そして心が弾むと息は温かくなるし、心が冷めると息の温度も下がってくる。

息にまつわる昔話がある。ある冬の夜、一人の旅人が雪の野原の一軒家にたどり ついた。ホッとした旅人は両手を口へ当てハァ~と一息、息を吹きかけた。家人がいぶかしげに「何をしてなさる?」と問うと、旅人は手を温めたのだと答えた。や がて食膳が運ばれる。すると旅人は汁のおワンを両手に持ち、フーと一息、やはり息を吹きかけた。家人が「何をしてなさる?」と問うと、汁が熱いので冷ましたの だ、との答え。はて同じ息で暖めたり冷ましたりとは? これは鬼に違いない。と家人は早々に旅人を追い出してしまった。 

これは笑い話であるが、では何故、温かい息と冷たい息が同じ呼吸器官で可能な のか。その秘密は「ハァ~」と「フー」にある。「ハァ~」という温かい息は、気 官をリラックスさせている。そして、息はゆるやかで太い。気管の持つ体温を逃が さず、そっくり口元へ集める方法である。それに対して「フー」という冷たい息は、 気管を緊張させ、素早く、細く吐く息である。体温をできるだけ口元へ運ばないよ うにしているのだ。 

人間は一息々々で生きているのであるから、どちらの息が体にいいかは自明の理 である。温かい息こそ元気の源である。日々の喜びが息を温かくさせ、温かい息が 生きる活力を産み出しているのである。反対に恨み、辛さ、苦悩の心が息を冷たくし、冷たい息が生きる意欲を削いでいくのである。 

ボディートークのプログラムでは温かい息を体感することができる。

一重の円を作り、真ん中に一人が立つ。みんなは円の中央に向 かって「ワァ~ッ」と感嘆の声をあげながら駆け寄り、 中央の人を指さして一斉に「あんたは偉い!」と叫 ぶ。言葉は「いい男!」でも「おめでとう!」でも、 とにかくほめるセリフであればよい。温かい息が ドッと集中するから、ほめられた人は顔が上気して 体がポーッと温かくなる。そして大事なことは、褒めた人も自らの息によって体が温かくなることである。 

内側から温かくなった体を最後に表面でキュッと引き締める。その方法は二人で 向かい合って「同時発声」を行う。一方が何の合図もなしに突然両手を開いて 「バッ!」と叫ぶ。相手は同時に両手を開い て「パッ!」と言えるかどうか。声がピタッ と合うと周りの空気が一瞬シンと静まるよう な爽快感がある。こうして体表を引き締めて おくと、体の温かさが持続し、元気が保たれ る。まさに人間の「おむすび」である。 




対人緊張が強い人の体はどんな体?

腕の付け根と胸の間をウムネという
夜道を歩いていて、向こうから怪しげな人がやって来る。このとき、体のどの部分が固くなるか ? また、人 前で話をするとき、体のなかで緊張する部分はどこか?
答えは、腕の付け根と胸の間の一点である。私が師事 していた野口体操の野口三千三氏は、このポイントを 「ウムネ」と呼んでいる。ウデとムネの中間という意味 だ。

あなたのウムネは固いか柔らかいか、調べてみよう。 まず軽く握りコブシを作って、ウムネに当てる。次に「アー」と言いながら強めにコリコリとこすってみる。痛みを感じる人は対人緊張の強い人、柔らかくてよく揺れる人は、 甘え上手な 人。ウムネは人に対する関係を如実に表す所である。

典型的な例を述べよう。プラットホームなどで中 学生や高校生の女の子が、友達と別れる場面。「バイバ イ」と言って手を振るその振り方に特徴がある。腕を脇に固くくっつけて、胸の前 で手の平を小きざみに振っている。あの仕草はウムネしこりから来る。

思春期の少女は、自分が他人からどう見られるかということに特別に敏感である。 自我に目覚める時期で、自分という存在が気になって仕方がない。それで人なかで 何か行動を起こすとなると、とたんにウムネが固くなる。プラットホームでサヨナ ラの動作をしようとすると、ウムネが固くなるから腕が上がらない。それで胸元で 手を振ることになる。

そんな少女も年を経てくると、人前でも腕を上げて堂々と手を振るようになる。脇の緊張などふっ飛んでいる。ただし中年といえども不倫の相手など に手を振る場合は、人目を気にしてウムネしこりのサヨナラをしているが・・・。

ツッパリ少年も実はウムネしこりなのである。これらの少年は、自分はこうした いという強い欲求を持っている。しかし、その欲求を言葉でうまく表現できない。

どうせ大人は反対するだろう。こういうときにウムネが固くなる。
ツッパリ少年は、ウムネをギュッと固くしているから、腕の付け根が動きにくい。 それでポケットに手をつっこむ。ポケットに手を入れ、頭を垂れて歩けば「落ち 込みスタイル」なのだが、どっこいツッパリ少年はエネルギーを内在させている。そこ でアゴをしゃくって強気なところを表現してみせる。

アゴを張るのは我を張ることだ。ツッパリ姿勢の仕上げは、膝の関節を硬直させること。つまり、膝に棒を入れた ように固く立つ。膝につっかい棒を入れることを私は「ヒザッパリ」と名づけてい るが、「ヒザッパリ」は「意地っぱり」なのだ。

あなたも、ツッパリスタイルを体感してみよう。

①ウムネを固くする ②ポケットに手をつっこむ ③アグをしゃくる ④膝にツッパリを入れる
これで完成だ。ちょっと歩いてみよう。出会った 人に思わず挑戦的になる自分に気づくはずだ。

「フ ン!」と言ってソッポを向いたり、「おう、ナン ダ? 文句あっか?」と、肩でつっかかる雰囲気に なってしまう。もう、おわかりのように、この姿勢 は息苦しい。すなわち、ツッパリ少年は息を詰めて 生活している。息が苦しいから暴走して、一時の解放感を得ようとするのだ。

ではツッパリ少年と、どのように接すれば良いか。 頭ごなしに怒鳴ってもダメである。ツッパリがますます強くなるだけだ。ボディートークの原則は、心をほぐすことからコミュニケーションの道をつけることにある。

ツッパリをほぐすには、その心が作っている体のしこりをほぐすことが大切だ。ツッパリ少年は ウムネほぐしから始める。互いにウムネがほぐれれば、話しやすくなる。問題解決の糸口は体ほぐしにあるのだ。私がかつて高校の教 師であった頃、ボディートークの体ほぐしで ツッパリ生徒の本音をずい分聞き出したものだ。




「生きることにマメ」シリーズ №4

元気になるためにチョットした工夫④

創造的に生きるということは、人間だけに与えられた特権です。その為の豊かな知恵がボディートークだと考えています。

そして一生かけて人生の見事な花を咲かせるのが、私の生きがいとなっています。私たちが人生の花を咲かせるには、毎日の積み上げが大事だと思っています。ボンヤリ過ごすだけでも一日は終わってしまいますが、一瞬一瞬を大事に考えて、一歩一歩良い人生へ向かう努力をしていると、たとえ短い一生であっても大きな成果ができようというものです。

“今日はどんな花で咲こうかな”
ポピーの花を5つ添えて増田明名言集を作っていますが、その一つとして人はそれぞれの人生があって、それぞれの美しい花を咲かせて欲しいと私は願っています。
            
●しなやかゴミ拾い
高齢者対象の講習会で、一人の男性の質問がありました。「最近、かがむことができなくて、靴下が履けない。どうすればいいのでしょう」そのちょっとした身振りで私にはピンとくるものがありました。

それで「ちょっと膝の裏の力を抜いて、両手を床につけて下さい」と言いましたら、その人は何の問題もなくしゃがんで両手をつきました。私は続けました。「その姿勢で片膝をついて靴下を履いてみて下さい。「ああ、そうか」と、その人は当たり前に靴下を履く動きをしました。靴下が履けなかったのは、膝を突っ張っているためにかがめることが難しくなっていただけのことです。

ここで皆さんにおすすめしたいのは、膝の突っ張りを瞬時にリラックスする意識を持つことの大切さです。立った姿勢から、まず膝をゆるめて、次に腰をかがめて頭をぶら下げて、床に落としたものを手で拾う動きです。「ふわ~ん」と、この順番にかがむと、まるで体を折りたたむように、しなやかに床に落ちたものを拾うことができるのです。

そして立ち上がる時は、頭を上げながら膝を伸ばしていき、それにつれて腰を伸ばしていくと、まるで魔法がかかったようにしなやかな身のこなしができるのです。膝は無意識の中で突っ張ってしまいがちですから、日常生活の中で、時々膝をホッホッと、ちょっとゆるめることを心がけてください。
           
●手・足・体ナデ
朝、目覚めると、私は乾いたタオルでふんわりと軽く手のひらを撫でます。足の裏も同様に撫でていきます。そして下着を脱いで全身をタオルで撫でます。こするのではなく、そっと素早く撫でるのです。

10分ほど全身をタオル拭きしますと、いつの間にか全身がホカホカと温くなります。きっと体中を包んでいる毛細血管の流れが良くなるからでしょう。特に手のひらや足の裏に神経も細やかに張り巡らされているので、その神経がやわらかな刺激を受けて活発に働いてくれるのではと考えています。

「やれ打つな 蠅が手を擦り 足を擦る」の小林一茶からヒントをもらって始めたことですが、ハエの場合は手を擦ることを、手を合わせて拝んでいるとみたの
です。ハエが手を合わせて、殺さないでと命乞いをしているように感じてできた句だと思います。でも現代の科学では、ハエの6本の足の裏には繊毛がたくさん生えていて、その毛の中のホコリを取り去っている動きだとみていますから、決して命乞いをしていることではないのです。

●肩の荷おろし
人間は元々、四つ足動物から進歩して類人猿となり、やがて更に進化して人間となりました。その証拠に、内臓は直立二足歩行用に発展したというより、むしろ四つ足歩行であった構造を残しています。

四つ足動物の前足は人間では手と呼ばれるようになり、歩くことは足に任せ、手は自由に動かしたり、物を作りだしたりするので、手と足の役割は、はっきりと異なっています。それで手が器用に動く分だけ、手の根元である肩が無意識に構えをつくるようになったのです。

何事かを為さんとする思いが常に働いて、人は無意識に肩を緊張させています。そういうわけで、構えのために肩に力が入る分だけ、腕や手の器用さは制限されます。

私はバイオリニストですが、肩に力が入ったままバイオリンを弾くと、音が固く、自由自在に弓を扱うことができにくくなります。それで一日の中で気が付けば肩の力を落としてリラックスすることを心がけています。どんな仕事にも肩をおろして腕や指をやわらかく保てるようにしていることは大切です。




スピーチ,その他であがらないために

スピーチでアガッてしまったという経験を誰しもがお持ちだろう。声はふるえるし、膝はガクガクする。手のひらや足の裏、わきの下などに汗がタラーッと流れて、頭の中はまっしろとなる。こういう経験はできることなら、したくはないが、その場に立つとどうしようもない。
 

一口にアガルと言うが、では、一体何がアガルのか。実は息なのだ。緊張のあまり息が上がるのである。脳は緊張のイメージができると、呼吸筋が収縮する。

呼吸筋はミゾオチを中心に収縮するので、息はそれより下へ降りることができない。だから息は浅くなる。アガッた息というのは早く、激しく、不規則で、浅い息なのである。

早い息は動きを速くさせる。それに不規則な筋緊張が加わると、行動がとっさに出てしまう。さらに息が浅いと、思考力はあまり働かない。それでアガッてしまうと思わぬことを口走ってみたり、とんでもない失敗をやらかしてしまうのである。

息が上がれば降ろしてやればいいのだが、言うは簡単、行うは難しである。アガリをふせぐために人は胸に手を当てて深呼吸をしたり、会場の人をカボチャが並んでいるんだと思い込もうとする。

手のひらに「人」と書いて飲み込むマネをするおまじないまである。それではボディートークではどのようにするか、息を降ろす一例を述べよう。

講演会場へ車で出掛けた時のことである。大阪の北部、猿で有名な箕面山のドライブ・ウェーを通る予定であった。麓まで来て、私はどこをどう勘違いしたのか、旧山道に入ってしまった。山道といえども観光旅館やo店の立ち並ぶにぎやかな道である。

それでうっかりしていたのだが、行くほどに道が曲がりくねり、幅も狭くなってから、やっとコースの勘違いに気がついた。
引き返そうかとも思ったが、百メートルほど上方にドライブ・ウェーが見える。

ひょっとしてこの山道をさらに行けば、ドライブ・ウェーに続いているのではないか。道幅は車一台でもう一杯というほど狭いが、タイヤの跡も残っている。行ける!と確信して私は強引に進んだ。
最後は急な坂ではあったが、ドライブ・ウェーは目前に迫り、道はまもなく合流するはずだ。やれやれと一安心して急坂を登り切った。その上りきった道の真ん中に太い鉄パイプが3本、打ち付けてあった。通行止めである。

ドライブ・ウェーをスイスイ流れていく車を目前にしながら、私の頭はガンと石のように固くなり、動悸は激しく、背中に冷たい汗がツーと走った。万事休すである。
 

引き返すしか方法はない。結論は一瞬のうちに出たが、しまった、と激しく後悔しているから息はアガッている。アガッた息で行動すると、今度は車の運転そのものが危険である。こういう時こそ、ボディートークの出番である。

私は車を降り、「アー」と発声しながら腰をブルブルと揺すった。ボディートークの「声ゆすり」である。数回行えば息は降りる。その間十秒。あせった心や体のこわばりは瞬時に消えた。

そして心の中で、自分の今、置かれている状況を肯定的に認めた。「そうか、この忙しい最中に、神様はドライブ・テクニックの練習をさせてくれている」
気分はすっかり楽しい方に変わった。窓を大きく開き、腰から後ろへ振り向いて、口笛を吹きながら、私は狭い急坂をバックで下り始めた。

アガッた息を元の落ち着いた状態に戻すには、ボディートークの「声ゆすり」が有効である。私は講演の直前に控え室でこれを行う。すると息が楽になるので、歩き方もスムーズになる。
実は、壇上に立つ人がしゃちほこ張って固い声で話すから、会場の空気も固くなるのだ。

控え室で体をゆすり、楽な息で壇に登り、そのままの息であいさつを始め、すぐに本題に入る。これが私のアガリ防止法である。




とっさに出る声は命を救う

これまではボディートークの第一分野である自然体運動法について述べてきた。今回からは第二分野である呼吸法・発声法について話を進めようと思う。

息によって声は発せられる。人によって息の仕方は様々であるから、声は個性的である。だから声を聞けば誰がしゃべっているか判断できる。声はその人の骨格や姿勢によっても規定されるし、またその人の育ち方、考え方やその時々の心の状態をも反映しているからだ。

すなわち、心と体の両面を表すのが声である。その意味で声のあり方は生き方と重大な結びつきを持っている。自分自身の息の仕方や声に気づき、そのクセを正し、さらに開発して気力や行動力を身につけるのが、ボディートークの呼吸法・発声法である。

十数年前のことだ。大阪の阪急電車のある駅で痛たましい事故があった。一人の女子高校生が線路に落とし物をしたらしく、自らプラットホームを降り、線路上でウロウロしていた。

電車が近づいてくるのを知って、少女は急いでプラットホームに両肘をついた。懸命に上がろうとしたが、体が持ち上がらない。

翌日の朝日新聞は「現代人はここまで冷たくなったのか」と言う見出しをつけて、トップでこのニュースを報道した。私は新聞でこの事故を知り大きなショックを受けながらも、はたして現代人の心が冷たくなったのかどうか、ふと疑問に思った。

そして、なぜ、まわりの人は少女を救えなかったのか、現代人は他人に無関心といわれるけれど、その奥にあるものは一体、何なのかと考え込んでしまった。

どうしてプラットホームにいた人は走って行って少女を引っ張り上げなかったのか。逆になぜ、少女は一声「助けて!」と叫ばなかったのか。両者は共にしなかったのではなく、できなかったのだと私は思う。

これは私の推論であるが、少女は多分スカートをはいていたのだろう。もしスラックスであれば、プラットホームの高さは高校生にとってたかだか胸あたりだから、なりふり構わずに足を振り上げてなんとか上ってきただろう。ところがあいにくスカートだったためにちょっと行儀よく両肘をついて体を持ち上げようと試みた。

そうしてもがいていれば、きっと誰かが駆け寄って、引っ張ってくれるという思いが心の中にチラッとよぎったかもしれない。でも少女の命の助かる可能性のある貴重な数秒間に助けを求める一声もなく、動作もなく、自力ではい上がろうとしたのだ。

では、少女が危ない!と気づいた人はどうしたのか。その心の動きを考えてみた。少女は自分で上がろうとしている。若い元気な子だから手を貸さなくても大丈夫、と行動を起こさない自分をまず納得させる。次に電車が迫ってくる瞬間には、助けなければ、と思っただろう。

しかしその時、自分が真っ先に手を出さなくても、一番近い人が引っ張りあげるのではないか、と一瞬ためらいがあったのではないか。少女の側もまわりの人の側も、この他に働きかけない消極的な態度、心の固いガードが、とっさの時に必要な体の動き、声掛けを封じ込めたのだと思う。

いざという時にタイミングよく必要な動作が出たり、声が出たりするためには、日頃から身のこなしをよくし、声が楽々と出るようにしておかねばならない。スッと動きや声が出ることをボディートークでは「道がつく」という。体の道、声の道をつけようというわけである。




肩身の狭い思いとするとどうなるか

試験に不合格であったり、仕事上で大失敗などをすると、心の中で自分自身を責めるようになる。いわゆる肩身の狭い思いである。肩身の狭い思いは息を窮屈にさせる。息のあり方はその人の生き方であるから、自ら息を制限することによって自分に罰を与えているのである。この時、背中の上部、肩甲骨と肩甲骨の間がキュッと萎縮する。これが、私のいう「肩身の狭いしこり」である。

 母親でボディートークに通っている人がいる。娘さんが大学受験の頃であった。レッスンで背中ほぐしを指導していると、母娘ともども肩身がキュッとしまっている。「ハハーン、受験に失敗したな」と直感した。本人が何も言わなくても、背中のしこりで判断できるのだ。

二人ほぐしをすると母親の方が狭くなっていた。ということは、不合格のショックを母親の方がより強く受けているということである。そのしこりをほぐしながら、「えっ、分りましたか」と母娘で顔を見合わせた。しこりをほぐすと息が深くなって心に余裕ができるから、困難な事態も冷静に対応することができるようになる。帰り際に母親が、「実は昨日から、ものも言えなかったのです。でも背中ほぐしで心が落ち着きました。今後のことは、娘とゆっくり話してみます」と、いつもの穏やかな表情に戻っていかれた。

肩身が狭くなると息が苦しくなる。さらに極端に肩身が詰まってくると、発作的に乱暴な行動が出てしまう。次にその一例をのべよう。

M君が高校に通学した。受験直前に父親の特訓によって、本人の志望より1ランク上の高校になんとか合格したのだった。大きな体を縮めて少し内気な生真面目な少年である。ところが1学期末の試験日から登校拒否が始まった。マンションの自室に閉じこもったきり、一歩も外へ出ない。3学期にもなって両親の説得がいよいよ厳しくなったところで、家にある物を手当たりしだい、向かいのマンションに投げつけ始めた。当然マンションから苦情が出る。一日中、M君から目が離せなくなって母親はノイローゼ気味になった、M君を病院やカウンセリングに連れて行ったものの、好転しなくて、縁があってボディートークへやってきた。

さっそくM君の背中を調べてみると、肩身がしっかり狭い。そのため声も出ない。こういう場合は私の方も息をひそめて、ゆっくりと、ていねいに対応しなくてはいけない。やがて背中ほぐしが進むと、少しずつ声が出るようになった。すると腰が徐々に伸びてきた。肩身の狭い人がしだいに腰をかがめるよういなるのは、犬で言えば尻尾をうちへ巻き込んでいるのである。M君の腰も尻込みの状態になっている。これでは気力も出ない。

 M君には肩身を広げる運動を指導した。すると、その日から物を投げなくなった。理由はこうである。

 人は息ができなくなると暴れる。その瞬間には善悪の判断など吹っ飛んでいるのだ。M君は両親から責められ、自分自身も責めて、その思いが息を窮屈にさせていた。そして、その思いが極限に達した時、息ができなくなる。その瞬間、周りの物をつかんで思いっきり遠くへ投げつける。すると、呼吸筋がいっとき緩んで、一息つけるということなのだ。

 一ヶ月ほど通うほどに、M君の背中はほぐれていった。腰も伸び、声も普通にでるようになり、笑顔もこぼれるようになってきた。その折、母親から「おかげさまで、Mがやっと食卓で食事をするようになりました。」という電話をもらった。どういうことなのか尋ねてみると、M君は登校拒否が始まって以来、食事はトイレに閉じこもって一人で食べていたとのこと。息を緩めないと、食物はノドを通らないから、M君は一人でないと食事ができなかったのだ。

M君の心と体の状態を両親も納得して、やっと家庭でまともに話し合えるようになった。今、M君は自分の学力にあった別の高校へ元気に通学している。




背中のしこりと心のつながり

心の悩みは背中にしこりとなって現われる。だから背中のどの位置のしこりかによって、反対に心の悩みが何であるかを知ることが出来る。今回は、肩に現われる代表的なしこりについて述べよう。

その1、「肩の荷の重さ」― 仕事への責任感

仕事が次から次へと重なってきたり、また自分には出来そうもない課題を押しつけられたりすると、両肩に(正確に言うと胸椎1.2番の両側)がつり上がってくる。そういう肩を触ってみると、横棒が入っているかのように強いしこりができている。本人はまるで肩に荷物を載せているように感じるから、これを俗に「肩の荷が重い」という。

 肩の荷を長時間負い続けると、両肩がこんもりと盛り上がり、そのために首が自ずと前へ出る。そして重荷に耐えきれなくなったとき、伏し目がちになり、首もうなだれる。カバンを小脇にかかえ「肩の荷」を背負い、首を垂れてトボトボと、それでもけなげに通勤している人を見ると、「この人は、仕事がつらいのだろうな」とつい同情してしまう。

 肩の荷が重くなる人はもともと責任感の強い人である。そういう人はしょっちゅう肩こりに悩んでいる。無責任な人には「肩の荷」のしこりはできない。さらに「仕事をなんとしてでもやり遂げるぞ」と気力をふりしぼっている人はアゴに力が入る。それでアゴをしゃくるようになる。こういう人が歩くと、顔ばかり先へ行って、お尻が後に残る。気は焦るのに体がついて行かない。だから小股でセカセカと急ぎ足になる。

 このタイプの人は年中イライラしているから、本人も周りの人も短気はその人の性格だと思いがちである。しかし短気ということは息が短いということである。肩が上がるから息が短くなっているのだ。短気な人はやることなすことすべてがセカセカと落ち着きがない。「肩の荷」のしこりをほぐし、息が深く降りるようにすれば、このような短気はなくなる。

その2、「肩身の狭さ」― 切ない思い

失恋をしたり、仕事上で失敗をして同僚に顔を合わせられなくなったり、また、家庭内の不和などで悩むと、胸がキュッと締めつけられて息が苦しくなる。この時、背中の中央上部.肩甲骨と肩甲骨の間にしこりができている。こういう人を「肩身が狭い」という。「肩身の狭さ」を私が発見したのは、失恋のしこりを知ったのがキッカケである。かつて私は高校で教鞭をとっていた。音楽を担当していたのだが、生徒の声を明るくするために発声指導は背中をほぐすことから始めていた。

 ある時、声の暗い一人の生徒が背中に強いしこりを持っていた。正確に言うと胸椎3番の左側を固くしていた。何気なく話をしていて、その生徒は失恋をした直後であることがわかった。その後、同じ位置に同じようなしこりを作っている生徒がいて、聞いてみるとやはり失恋中なのである。そこで逆に、その位置にしこりを持っている生徒がみつかると、「キミ、失恋中?」と尋ねてみることにした。これが見事に的中したのだ。

 私が面白いように失恋を当てるものだから、音楽の先生は恋愛占いができるぞと評判になった。そのうち昼休みには連日、背中を占ってほしいと音楽教室前に行列ができるようになった。

 おかげで来る日も来る日も生徒の背中を見るハメになったが、このことで背中のしこりと心のつながりについて、その他いろいろなケースを知ることができた。プライベートな我慢のしこりは胸椎4番、家族関係のゴタゴタは胸椎5番、同僚や近所付き合いの不和は胸椎6番という具合である。ちなみに恋をすると、その兆候はやはり胸椎3番の両側に出る。恋をしている人の息は熱いから、しこりではなく、この部位が特に柔らかく弾力性に富むようになる。




借金のしこりをほぐす方法

動物としての人間の体は、本来、柔らかいものである。そして緊張したり、疲労したりすると固くなる。運動からくる肉体的な疲労はもちろん体を固くさせるが、これは休養をとれば回復する。やっかいなのは精神的な疲労だ。
 

精神的なストレスは体の中に複雑なしこりやゆがみを作る。そしてストレスによる過度の緊張を毎日々々積み上げていくと、体のこわばりは慢性化してしまう。
精神的なストレスが体にどのように現われるかというと、例えば、頭をストンと前に落としてみてください。

そして肩の上部の首の付け根に手をあててください。すると大きな骨がひとつボコッと出でいるのがわかる。この骨が頸椎7番―首の骨を上から数えて7番目にあたる骨だ。この骨のまわりの筋肉が固ければ、「借金のしこり」。お金の問題で悩むとこの部分がまず固くなる。「借金で首が回らない」のは実際に、首の付け根が硬直するからだ。
 

インドネシアに行ったときのことである。かねてから知人がお店を開いたと聞いたので立ち寄ってみた。こぢんまりとしたかわいい土産物店であったが、あまり繁盛している様子はない。ご主人が一人で店番をしていたので「奥さんはどうしたのか」と尋ねると、「風邪で寝ている」とのこと。「でも起きられないことはなさそうだ」と店の奥に呼びに行ってくれた。
 

奥さんは頭にスカーフをはちまきのように巻いて出てきた。頭痛が激しいのだという。額に手を当ててみると、熱はない。そこで背中を調べてみると、なんと首の付け根がコチコチでこぶし大の石が入ったかのように盛り上がっている。「これは借金のしこりですよ」と片言のインドネシア語で説明をすると、ご主人も奥さんも大笑いになった。開店したものの品物があまり売れなくて、借金の返済に困っていたのだ。
 

さっそく椅子に浅く掛けてもらって背骨をユラユラと揺する方法を教えた。ボディートークでは「背骨の波送り」と言っている。背中をゆるめて腰からユラユラと上方へ波を送っていく。すると波の動きに乗って頭がグラグラと揺れる。その時「アー」と軽く発声するのがコツだ。
 

この奥さんの場合は、首の付け根の借金のしこりの部分で波が通りにくくなっていたから、その箇所に快痛を感じる強さで揺すってもらった。それを5分ほど続けると頭痛がすーっと引いてしまった。
 

このように精神的なストレスが体にしこりを作っている時は、そのしこりが何によって生じたのかということに意識の焦点を合わせてほぐすとうまくいく。皆さんも会社での会議中や上司からの仕事の説明を受けているときに、背中の1点がピリピリ痛むという経験を持っていないだろうか。

責任を強く感じると「肩の荷が重く」なって筋緊張がおこり、痛みを感じるのだ。そんな時は肩の荷が重いぞと思いながら「背骨の波送り」をすると、しこりはとれる。
 

このように肩こりの症状は「借金のしこり」や「肩の荷」など、ほとんど精神的なストレスが原因となって起こる。それを同じ仕事をやり続けたから肩がこったのだと思っている人がいるが、その仕事をどんな心でやり続けたかが問題なのである。
 

例えば、歩き続けるとしよう。恋人と話しに夢中になって1時間、2時間あるいてもさして疲れるものではない。ところが、イヤな人と5分並んであるいただけで、もうドッと疲れがでてしまう。お店の対応も次々お客様が見えると快い疲れですぐに回復するが、1日にパラパラだと気が滅入って背中がドンと重くなってしまう。だから体をやわらかくするには心の問題に気づかなければならないのだ。
 

精神的なストレスは見事に背中にしこりとなって現われる。次回は背中に現われる心のしこりについてお話を進めよう。




柔らかい頭を保つためには

かたくなに自分の意見を押し通そうとするガンコな人。そういう人は姿勢を見るだけでガンコだと分かる。いったい体のどこに?実は首に現われる。ガンコな人は首筋を硬直させている。

皆さんも自分の体でちょっと試してみましょう。首を後方へグッーと引いて首筋を固くする。すると自然に下アゴにも力が入る。眼筋も心なしかこわばって目つきが険しくなる。これがガンコ首である。この姿勢で「ン?」と言ってみると、固くて押しつけがましい声になる。この声で「ナニ言ってんだ、おまえは俺の言うことが聞けないのか!」と怒鳴ってみると、ガンガン、キンキン、コンクリートの塊をぶつけるような声になってしまう。だからガンコな人は電話だけでもバレてしまう。
 

ガンコは何故、首に現われるか。その理由はこうだ。私たちは考え事をするときには頭を固定する。前頭葉をフラつかせると、思考が進まないからだ。頭を固定させるには首の上部を固くしなければならない。四六時中、考え事をしていると当然首筋全体が硬直してくる。

硬直した首は容易に動かないから、この首が逆に考え方を固定してしまう。ガンコ首が石頭多いと、前回で述べたように怒りのしこりは背中の中央に出る。慢性的な怒りは背中全体を固くするから、体がやがて石のようにコチコチになる。だから石頭の人は「石体」になる。
 

ところで体が固いとか柔らかいとは、どうやって判断するのか。「最近、体が固くなってるねえ」と嘆いてる人に「固くなったとどうしてわかるのか」と尋ねてみると、「前屈しても手が床に届かなくなったし、足ももっと開いたんだがなあ」と答えがちである。前屈や開脚の出来具合が判断の基準になっている。それではお餅の軟らかさはどのようにして調べるか。

これは触ってみればたちまちわかる。人間の体も同様である。触って柔らかければ柔らかいし、固ければ固いのである。「アレッ、固いな」と感じられれば体は固いのである。太っていて、見た目にはポチャッとしていても精神的な悩みが深かったり、責任の重い仕事が続いて過労であったりすると、コチコチになっている。だから前屈や開脚ができても、実際は体の固い人はいっぱいいるのだ。
 

人間にとって大切な体の柔らかさとは中身のことである。筋肉が柔らかくて弾力性があり、血液や体液の流れがいいということが大事なことなのだ。ちなみに、犬は前屈や開脚はしない。しかし体を柔らかくする努力は絶えずしている。胴ぶるいや伸びがそれである。
 

話を元に戻そう。ガンコ首が石頭を産み、石頭が石体を作ってしまうのなら、私たちは「柔らか頭」を保つためには何をすればいいのか。小さな声で「アー」と発声しながら、首をゆっくりまわせばいい。そうすると首の上部と後頭部との接合部分が固くなっているのに気づくだろう。考えが堂々巡りをしていたり、壁にぶつかって先へ進めないような時は、特に固くなっていて痛みを感じるはずだ。

そんな時は、片手でその部分をトントンとたたいてやる。やはり「アー」と発声することが大事だ。声を出せば、振動が頭へまんべんなくいきわたるし、その振動を外へ逃がして、しこりを無理なく除くことが出来る。
頭が固くなったと思ったら「アー」と言いながら首をまわして後頭部をトントン。これが「柔らか頭」のためのボディートークである。




猫のけんかは「肩をイカらす」典型

背中は人生を物語る。去りゆく後ろ姿を見て、その人の生き方にハッと気づくことがある。表向きをどんなに取り繕っても、背中はごまかせない。心のありさまや感情が正直に表れるからだ。たとえば、怒りは背中にどのように表れるか。怒ると腹が立つ。腹が立つと言うことは、胃が硬く収縮して持ち上がることだ。レントゲン写真では、実際に胃が立ち上がったように見える。

では、胃を立ち上がらせている神経はどこからやってくるのか。実は、背中の中央、正確に言うと背骨の胸椎8番出ている。怒りの感情は、まず背中の中央を硬くさせ、その刺激を受けた神経が腹を立たせるのである。

「肩を怒らす」という表現もある。これは単に肩を持ち上げた状態ではない。もし人がヒョイと肩を上げて「怒ってるぞ!」と言ったとしても、ちっとも怖くはない。ただ、怒りのポーズを取っているだけだ。本当に怒ると、まず背中が盛り上がってくる。さらに、感情が高まると、肩もつり上がってくる。だまっていても、力が体にみなぎってくる。「肩を怒らす」とは、そのような状態を言う。
 

猫のケンカはその典型である猫は相手を威嚇するために牙をむき、毛を逆立てて背中を強く、高く、膨らませる。もちろん、尻尾もピンと立てている。この背中を硬直させることで、猫の胃も立っている。人間はもともと四つ足の動物であったから、怒りのシステムは、猫と同じである。猫が毛を逆立てるのは、背中が硬くなるからだが、人間の毛も同様に逆立つ。

赤ちゃんがイラだって泣きじゃくるときもそうだ。だからお母さんは抱っこして「よしよし」と言いながら、背中をさすってやる。母親のこの動作は本能的なものだ。その証拠に、世界各国共通にだれに教わることもなく、赤ちゃんの背中は上から下へなで下ろす。赤ちゃんが泣いているからといって、下から上へなで上げる親はいない。逆立っている毛をなで下ろすことによって背中を柔らかくさせ、いらだちを納めているのだ。
 

赤ちゃんなら、このように背中をさすってもらえるが、大人となると、なかなかそういうわけにはいかない。立った胃をどのようにして座らせるか。たいていは腹を据わらせる努力をしないで、立ったままにしているから、一度だれかに腹を立てると、まわりのもにまで八つ当たりするようになる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというわけである。
 

ある大手企業の幹部研修で講演をしたときのことだった。背中に表れる様々なしこりの持つ意味を私が話したところ、講演後、背中をみてほしいという人達の列が出来た。その中の一人に、右脇にクッキリと小石大のしこりを持った人がいた。怒りが慢性化し、被害者意識を持ち始めると、恨みのしこりへと移行する。

「これは大変だ。奥さんに対する強い恨みが出ていますよ。」と私が言うと、それまでニコニコしていたその人の血の気がサーッと引き、突然、真顔で「いや、私には妻はおりません。」とおっしゃる。「そうですか。でも、このしこりはあなたの1番身近な人のことで出るものですが・・・」「ほう、そうするとむすこのことかなぁ」「えっ?息子さんがおありなら、奥さんはいらっしゃるでしょう」「実はお恥ずかしい話、女房に逃げられましてね。」

この人は、中学生になったばかりの息子を放って実家へ帰ってしまった奥さんに強い恨みを持ち続けていたのである。このしこりを持ち続ける限り、恨みは続く。しこりを取れば、心が穏やかになって解決へ向かう余裕が生まれる。早速、うつ伏せに寝てもらってボディートークの「背中ほぐし」で恨みのしこりを取り除いた。「おかげさまで、気持ちが楽になりました。」と、その人はホッとした様子で帰って行った。