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真実は体が直感する、背中占い

幽霊は存在するのか、しないのか。たいていの人は幽霊は人間の作り話だと思っているだろう。ところが実際に遭遇したという人は極めて具体的に、いつ、どこで、誰の幽話がどのようにした、 と語っているし、またその口調は妙に確信に充ちている。

幸いにして幽霊なら私も一度、はっきりとこの目で見、声も聞いたので、 その時の模様を述べよう。

私が学生であった、ある冬の夜、午前二時頃であったと思う。眠っていた枕元に人の気配がして私の名前をしきりに呼んでいる。 その声はとても苦しそうで、弱々しい。名前を呼んでは「ウー」 と呻くのだ。ぼんやりしていた私の頭が次第にはっきりとしてきて、これはてっきり姉だと思った。姉が夜中に苦しくなって私を起こしに来たのだと理解したのだ。

目を開くと姉が私の顔をのぞき込むように近づいていてい る。私は思わず「どうしたの?」と尋ねた。そのとたんに、白 い姿はスーッと遠のいて消えていったのである。

これは幽霊だ、と背筋がゾッとした。はっきりと姿を見たのは事実だし、声だって耳に残っている。今のは一体何だったのか。私は起き上がって考えることにした。

結論はこうである。当時私は風邪気味で興を詰まらせていた。従って口を開いて息をしていたから寝ている時に、気管支のゼーゼーという音がしていた。それを姉の声だと錯覚したのだ。

目を開くと姉がいたというのは、目の盲点のせいである。眼球の奥には視神経がつながっていて、 光を感じない部分がある。この盲点のために私たちは目で見ていても、風景はどこか一部分が白っぼくなっている。寝呆けた目を開いた時、暗い部屋の中ではこの白いモヤモヤの部分は大きい。

てっきり姉だと信じて目を開けたから、モヤモヤを人間の姿だと見てしまったのだ。次に私は声を発した。すると気管支のゼーゼーは当然、音がしなくなるし目の神経も急速に働き始める。モヤモヤがスーッと消えたのは、目が暗がりをはっきりと見たからだ。

つまり私の見た幽麗現象は、頭の中で作られた主観的なイメージと、体で感じられる客観的な感覚とが合成された結果である。他にももっと別の原理で幽霊が現れるかもしれないが、少なくとも私の遭遇した現象は充分起こりうることである。また私の一生でも一度きりのことであるのかもしれない。

私はそれまでは幽霊の話などバカバカしいと一笑に付していたのだが、このことを経験してからは、心霊現象などの話も真正面から受け止められるようになった。そして自分なりに、その奥に潜む客観的事実や科学的根拠を探ることに、興味を持つようになった。

ボディートークの「背中占い」についても、幽霊の話と同じく初めは半信半疑の人が多い。

「背中占い」とは背中のしこりを触診して心の問題を知る方法である。
初対面で、何の予備知識もない、ある大学の医学部教授の背中を触った時のことである。私は三十秒ほど指を軽く走らせてから、こう言った。

「あなたは最近、大きなイベントを終えてホッとしていますね。肩の荷を下ろした状態が胸椎一 ・二番に表れています」「また、部下に一人、とても扱いにくい人がいて、そろそろ決着をつけなく ては、と考えています。」

「それは胸椎七番の右にしこりとなって出ています。」
それに対して大学教授は真顔でこう答えた。
「驚きました。そのことは二つとも当たっています。しかし背中を触ってわかるなどということを、私は信じませんね」

借金のしこりが首の付け根に出て首が回りにくくなること や、失恋のしこりが胸椎三番に出て肩身を狭くすることなど を、私は人の背中を触ることで経験的に知った。そして様々な心の問題が、その悩みの種類に応じて体にそれなりのしこりを作ることを私は確信している。

真実は先ず体が直感する。その真実は経験的に確かめられている。心と体の具体的な結び付きが、やがて医学的にも証明される日がきっと来るだろう。




息は伝染するもの、あくびはその好例

息は伝染する。会議などで一人がアクビをすると、次から次へと伝染して会場に気怠さが漂う。その意味で息はその場の空気を支配する、とも言える。

狭いエレベーター内ではお互いの息遣いが聞こえる。それで聞こえないようにと息を殺すものだから、窮屈な思いをしてしまう。こういう時は口を少し開くのがコツだ。ロを開くと音がしないように息を足下まで落とすことがで米るから、楽に深い呼吸ができる。

窮屈な息といえば、お葬式もその典型である。悲しみの 思いは気道を締めるから参列者の大半は息を詰めている。その中に故人と縁がなく、義理で参列している人もいるだろうが、その人も開放された明るい声でしゃべることは憚られる。全員が声を潜め、息を詰めることで会場の空気が悲しみ一色に 統一される。
悲しみを更に深めるために、昔は葬儀専門の泣き女という風習さえあった。

また、飛行機事故で亡くなった坂本九さんのお葬式では、会場に流れるバイオリンの音が、かすれ気味に震えながら、とぎれとぎれに演奏されているのが印象的であった。共に会場の空気を支配する力を持っている。
そして会場の空気とは、その場にいる人たちの息の仕方に他ならない。従ってお葬式に参列する時は、会場の近くまで行ってから胸を押さえて、数回、息を詰めておくのがコツである。そうすればお悔やみも言い易くなる。

妻の息が夫に伝わる

夫人は四十代後半の上品な奥様である。夫婦間の悩みがあってボディートークの個人レッスンに来られた。夫は温厚な人柄で会社の管理職でもあり、特に問題がある訳でもない。ところが結婚以来、いまだに打ち溶けて話し合ったことがないのだそうだ。いつも礼儀正しくよそよそしくて、他人と暮らしているようだ、とおっしゃる。

早速、O夫人にうつ伏せに寝てもらって背中を調べた。すると背中が石のように固い。 特に両肩甲骨の間である肩身をギュッと詰めている。これは切ない思いを溜め込んでいるしこりである。また、その下の胸椎九番に強いしこりがある。これは憎しみを表す。

しかし他のしこりとの関連から、夫へのではなく、どうやら両親へ向けられた憎しみの感情である、と私は直感した。「ご主人のことより、ご両親のことで憎しみが出ていま すが・・」と説明すると、O夫人は思い詰めたように語り始めた。

両親から、今のご主人との結婚話を勧められた時、彼女には他に意中の人がいたのである。そのことをご両親に打ち明け、辞退したいと懇願したけれど聞き入れられず、無理矢理、結婚させられてしまった。自殺未遂事件まで起こした揚げ句、夫には決して心を許すまい、と決意して結婚生活に入ったのだそうだ。

「結婚以来二十数年、そんなことはすっかり忘れていた。」と0夫人は寂しく笑ったが、 そのあと肩身をほぐすと、泣きたいと思っていないのに止めどなく涙が流れ出た。しこりや憎しみのしこりは、本人がそのことに気付きながらほぐすと柔らかくなるものである。固くしていた神経がほぐれてやっと涙も出るのである。

しきり泣いて彼女は帰ったが、その夜、びっくりすることがあったと、次のレッスンの時に報告があっ た。夫が口笛を吹いていたというのだ。今まで聞いたこともなかった夫の口笛とリラックスした態度に彼女はびっくりしたのだが、それは彼女の息が緩んだからである。

変わったのは彼女の方の息である。心をほぐし体 をほぐして、わだかまりを取っていったので、夫を許す息になったのだ。妻の息が夫に伝わる。
妻のわだかまり消え和やかに開放された息が、夫の無意識の息に伝 わり、家庭の空気が和んで、彼の方は思わず口笛が出た、というのが本音だろう。

夫人から「お蔭様で、電車に乗っても、やっと夫と隣同士座れるようになりました。 この分だと、これからは少しづつ近づいていけそうです」という、うれしい便りをもらった。




心の動きと息との微妙な関係

心の働きはすぐさま息となって表れる。相手に対して悪感情を抱いていると、気道は微妙に収縮して息を詰まらせる。詰まった息でしゃべれば、どんなに丁寧な言葉遣いをしても、声は重く曇ってしまう。

時間オーバーの訪問客がようやく重い腰を上げてくれると、そのとたんに自分の息がほぐれ、気分が軽くなって思わず声が大きくなった、という経験を誰しもお持ちだろう。相手をする側は自分の声の重さを感じているのに、来訪する側は意外とそのことに無神経なことが多い。
商談の席でも本音は、声の調子や息遣いに表れるから、相手の言葉に振り回されないで、言葉の奥にある息そのものに焦点を当てることが肝心である。

かつて我が家が引っ越しをした時の話である。二社の引っ越 しセンターに依頼をして、とりあえず見積もりをしてもらった。 まずやって来たのは大手の引っ越しセンターである。若い営業マンが各部屋の家具や荷物を見て、トラックの大きさや荷作りの手順を手慣れた様子で 説明してくれた。そして最後に値段の交渉に入った。

すると今までの流暢なおしゃべりはどこへやら、急に横を向いて咳込み始めた。こちらに言いかけては、咳が出てしまうので話が進まない。
この場合の咳は心の働きに起因する。営業マンとしてはなるべく高い額を言いたい。しかし契約が成立しないことには仕事にならないから、自分の裁量に任されている範囲で値引きをしなければならない。

言いたいことが言えないと、背中の両肩甲骨の間(正確に言うと背骨の胸椎4番左側)がキュッと締まってシコリが出来る。シコリとは筋肉が固くなることだから、その中を通っている神経も圧迫される。胸椎4番から出ている神経は気管に関係しているから、その働きが鈍くなり収縮させてしまう。その収縮をとろうと咳をして緩まそうとするのである。

あまりに咳込むので、私は助け舟を出した。「あなたが本当に欲しい額はいくらなの? 上限 は? そしていくらまで値引きできるの? これ以下じゃダメっていう値段は?」すると若い営業マンは意を決したらしく、上限は十八万、下限は十五万、とスラスラ答えた は上の値段が言えれば止まるのである。

次にやって来たのは見るからに力持ちで機敏に動きそうなオヤジさんだった。引っ越しの段取りの説明も合理的であったし、値段の交渉も一瞬にして終わった。
「うちはこの規模なら十五万。ただしお宅の希望の日は既に午前は仕事が入っている。もし、その後からでもよければ十二万で結構」オヤジさんの息は単純明快、一点の曇りも迷いもない。その道一筋という心意気が気に入ってその場で契約をした。

気が合うとか合わないとかは、実は息の仕方の相性である。どうせ仕事を頼むなら、この人と思う人の方が良いに決まっている。契約後にそんな話をしていると、オヤジさんが引っ越しの話をしてくれた。

お客さんによってはどうも気に入らない人がいる。そういう時は仕事の段取りも妙にチグハグになって疲れがドッと出る。そうかといってお客さんに仏頂面をする訳にはいかないから、外面はニコニコしているもの内心はイライラが高じている。イライラ解消はイジワルをするに限る、というのである。

例えば冷蔵庫に卵のパックだけを残して運ぶ。そうする 卵が割れて後の掃除が大変だ。また引っ越し先に着くなり、冷蔵庫の電源プラグを然り気なく差し込む。そうすると冷蔵庫の冷却がうまくいかなくなる。コンプレッサー内の液体
が安定しないうちに圧力がかかるからだそうだ。

オヤジさんは気付かれないようにイジワルをして秘かに溜飲を下げているのだ。この溜飲を下るというのも、気に入らない人に対して詰まったのを、その人が困っている様子をイメージすることによってほぐしている、と言えるだろう。
いよいよ引っ越しの当日、冷蔵庫を運び出す段になって、私はソッと冷蔵庫の扉を開いてみた。幸い 卵のパックはなくて、きれいに空っぽであった。




一触即発の鋭い反応

バリ島のケチャック・ダンスを御存知だろうか。ヤシ油の燭台を中心に、数百名の男たちが幾重もの円を作って車座となる。「チャック」と短く鋭い叫び声で、男たちが別々に個有のリズムを刻むと、そのリズムが見事にからみ合い、全体として一つの力強いリズムを生み出す。その強烈なリズムの輪の中で、きらびやかな衣装を身にまとったバリの娘たちが「ラーマーヤナ物語」を踊り、演じていく夕闇の中、ヤシの木陰の村の広場で繰り広げられる、

この幻想的な民族芸能は、西洋音楽には見られない特有のアンサンプル原理を持っている。そもそも数百名もの男たちが別々のリズムを刻みながら、どのようにして一つ にまとまることができるのだろうか。西洋のオーケストラでは前に立った一人の指揮者が全体を統一する。

しかしケチャック・ダンスでは、 その時々の動きの合図を送る人はいるものの、指揮者なしで互いに互いの気を寄せ合い、高め合って全員の総力 で一体となるのだ。双方の組織の在り方を一言で述べるならば、西洋のオーケストラはリーダーシップ型、 東洋のケチャック・ダンスはメンバーシップ型、と言えるだろう。

チームをまとめるには統率力のある、有能なリーダーを必要とすることは言うまでもない。ところがリーダーが優秀であっても、チームの気力が今ひとつ燃えない、ということがある。即ちメンバーの側は、リーダーの指示通りに動けばいいという意識がある だけで、メンバー自らの積極的な意思を持っていない場合だ。

人は自発的に行動する時、最も生き生きするものである。とすればチームがすごいパ ワーを発揮するには、メンバーの自発的な、積極的な力を結集する必要がある。この強力なメンバーシップの秘訣がケチャック・ダンスにあるのだ。

十数年前、私はケチャック・ダンスを学ぶためにバリ島を訪れた。日本の劇団でケチャックを取り入れたミュージカルを上演するためである。一カ月間、朝から夕方まで村の指導者から直接、伝授してもらったのだが、宿舎の庭先で「チャック、チャック、 チャック・・・」と叫び声を上げていると、村の人たちが集まってくる。その中にはケチャックの出来る男性もいたから、練習に加わってもらった。

するとその人は、それまではニコニコと笑って見ていたのに、練習に参加したとたん食い入るような眼差しで私の一声に集中をしている。少しでも私が動こうものなら、すぐさま反応してくる。まさに一触即発という気配だ。その迫力に私は声を出せなくてタジタジとなったことを覚えている。

ケチャック・ダンスの見事さは数百名の男たち全員が、互いの動きに対して一触即発の反応の鋭さを発揮していることにある。そして一人でも鈍いリズムを発すると全体のリードが崩れてしまう。リーダーの合図について動くという感覚では、既に遅れている のだ。リーダーとメンバーが同時に動くという感覚があって、初めて成功する。

では、メンバーがリーダーの指示と同時に動くためには何が必要か。「良きメンバーシップの条件」として述べよう。

1. メンバーはリーダーの指示を予感する
メンバーは、この「予感する」という自覚が大切で ある。ボディートークの人間関係法プログラム「飛行機ショー」に於いて、リーダーの声や動きとピッタリ合うには、メンバーはリーダーの一挙手一投足に最大の注意を払い、指示を予測する。そうすれば同時に動くことができる.またその行動の在り方の中にメンバーの自発性が発揮される。こういうメンバーと共に仕事をすれば、リーダーは引っ張っていくしんどさを感じないし、仕事の中身そのものに集中することができる。

2.  メンバーは後走りしない。
リーダーの先走りも困りものだが、メンバー の後走りもチーム力を減退させるものである。 後からついていくのは楽であるが、仕事を共に仕上げる爽快感は味わえない。リーダーの能力を最大に引き出す鍵は、メンバーの、この機敏性にあるのである。




気が合わない、ということについて

あきらめて我慢をしたり、同じ仕事をするにしても、気の合う人と一緒だと気持ちも楽だ。合わない人と一緒だと、その存在感が重荷となっ て仕事も思うようにはかどらない。「気が合わない」ということは「息が合わない」ということである。

この場合の息とは、無意識下で行われている。 その人本来の息の仕方のことである。だから人は出会って早々に「この人とは気が合わないな」と直感したりする
無意識下で合わないものを、そのままにしておけば、いつまでも合うはずがない。それで不幸にして同じ職場に気が合わない人がいると、 これは宿命なのだ、と半ばあきらめて我慢をしたり、出来るだけ接触しないようにして、やがてはワザと無視したりする。

「それも仕方がない」と溜め息 をついているのは必ずしも自分の側だけではない。こちらが合わなければ向こうも合わないのだ。
ところが気というのは息の問題なのだとわかれば、解決の方法もあろうというものだ。息の問題を意識のレベルで捉え、体ぐるみで学習することで、息を合わせるコツを会得する方法がある。

前回述べた「飛行機ショー」は、積極的に息を合わせる能力を身に付けるためのパ フォーマンスである。即ち全身で相手の息を受け入れ、全く同じタイミングで動くことを可能にする。

社員研修ではまず二人一組で練習をする。一方がリーダー、他方がメンバーとなる。 息合わせは互いに歩み寄って初めて成功するものだが、リーダーの役目とメンバーの役目は、そのポイントが異なる。

パフォーマンスの仕上げは六人一組となる。前列に立て膝になって三人が並び、その後ろに三 人が立って後列を作るのだが、六人のうちの誰がリーダーになってもよい。息がピッタリと合ったチームは全員が自信に満ちてはっきりと動き、しかもタイミングが見事に一致しているので、どの人が合図しているのかが全くわからない。まるで魔法を見ているように感じるので、会場には大きな拍手が起こる。演じたチームは爽快感 で意気揚々としている。

成功するにはいくつかのポイントがある。また、このポイントを体得するのが、「飛 行機ショー」のねらいでもある。そして、一度身に付けば、日頃の仕事でも大きな効力を発揮するし、家庭生活でもこのポイントは大事なことである。
まず「良きリーダーの条件」を簡潔に述べよう。

1. リーダーは明快な指示をする。
リーダーは鮮明に飛行機をイメージし、自らの発声で遠くから飛んでくる音を微かにメンバーに伝え始め、次第に大きくして声のニュアンスで首を振るタイミングを知らさなければならない。

明快な動きをするためには、リーダーは気を静め、イメージをしっかりと整理する必要がある。整理もされていないのに見切り発車をしてはいけない。見切り発車をすると、途中で動きがあいまいになるので、メンバー がうろたえてしまう。

リーダの役目は、この明快な指示にあるのに、それを 怠っている人が案外多い。そういう人は「部下が動かない」と文句を言う前に、自分の指示がスッキリしているかどうかを点検してみる必要がありそうだ。

2. リーダーは先走りをしない。
リーダーの指示を受けてメンバーが動き出すには、それなりの準備の間(マ)が必要である。「指示はしたぞ、すぐについてこい」では強引というもの。
リーダーは全身でメンバーの発声、息遣いを察知しなければならない。「いける」 と感じたら迷わず大胆に行動を起こす。するとメンバーは信頼して同時に動くことができる。

さて、問題はメンバーの側である。世にリー ダーを養成する研修は多いが、指示を受ける側のコツについてはあまり聞かない。
次回は「良きメンバーシップの条件」につい て述べよう。




相撲を見れば息の合わせ方が分かる

「気が合う」とは「息が合う」ことである。二人で机を運ぶ時 も、息が合えば机を通してお互いにスムーズに歩けるし、息が合 わなければ肌が腰にぶつかったりしてギクシャクする。 

息を合わせることは中々に難しい。相撲では互いの息を合 わせるために何度も仕切り直しを行う。観ている方にしてみれば、早く立ち上がってほしいというところだが、力士が全力を出し切 るためには、息がピタッと合った最高のタイミングが必要なのだ。 そして実は仕切り直しの中で、行司も審判員も観客も、 息に向かって息を合わせていくのだ。あるいは一つの息を作って いくと言ってもいい。 

素晴らしい音楽会では、 奏者と聴衆が一体となって自 然に息が合ってくるものだ。 

相撲は更に積極的に全館がひとつになって、一つ一つの勝負毎に息を合わせるので、熱気が増してくる。これほど見事に競技者と観客とが一体となった息のすごさを見せてくれる競技は他にないのではないか。 

これほど凝縮された真剣な息合わせでなくても、私たちは仕事や生活で息を合わせるということを上手に活用したい。そこでボディートークでは、積極的に息を合わせるコツを得るためのプログラムを開発した。その中のひとつ、「飛行機ショー」というの を紹介しよう。 

二人ないしは数人でグループを作り、一人がリーダー、他はメンバーとなる。前列の人は座り、後列の人は立って、共に飛行機ショーを見る、という設定である。 

まず飛行機が、右上前方より飛来して目の前をビューンと通り過ぎ、左方へ去っていくのを見ることにする。初めは全員、右上前方を見ているのだが、リーダーは自分で想定した飛行機の動きに 合わせて「プーウウーン」と声を出し、首を振って左の彼方を見る。この時、他のメンバーはリー ダーの発声と気配だけで動きを察知し、全く同じタイミングでリーダーの動きと声に合わせる。 

成功すると、みんなで本当に飛行機を見ているように感じる。またそのパフォーマンスを見ている人には、誰がリーダーなのか見破ることができない。それほどピッタリと一致することができ る。 

「飛行機ショー」では一応、飛行機の飛ぶ方向をパターン化しておく。飛行機は右から左に左から右へ飛ぶ。リーダーはその都度「ブーウウーン」「ブーウゥーン」と首を振るのだ。 て最後に真正面から頭上を通過していく飛行機を見る。リーダーと共にメンバーは正面に向かい目を見開き、飛行機が頭上を通過する時は、一斉に両手を上げてびっくりポーズで真上を見る。リーダーのこの時の声は「ブーン、ウワァッー!!」もちろんメンバーも同時にこの声を出す。 

リーダがメンバーを無視してさっさと首を振ってしまうと、メンバーはとり残されてポカンとしている。リーダーのワンマンさで、独りよがりの様(さま)がはっきりと演じられるので、会場はドット笑い渦に包まれる。 

他人の都合を考えないで強引に事を進めてしまう人がいるものだが、そういう人は、 自分の強引さに気付いていないことが多い。「飛行機ショー」のパフォーマンスではそれが 端的に顕れる。日頃を隠すことはできない。 

反対にメンバーに気を遣い過ぎるリーダーだと、なかな 動き出せずに、そうこうしているうちにリーダーである事がバレてしまう。 

実際にやってみると、成功するには意外と難しいことが解るが、要は、リーダーにしろメンバーにしろ、体を柔らくして「気」が開いていないと、息の合ったチームワーク」 生まれてこないという事が実感できる。 チーム毎に十五分程練習すると、やがて全員の動きがスカッと合う組が出てくる。このようなチームはリーダーも優秀であるが、それ以上にメンバーが 晴らしい。

「飛行機ショー」は企業研修の中で「リーダーシップとメンバーシップの理想的な在り方」 感じるのに最適である。 




青い鳥は、あなたの中に

●踊ること大好き
   ♪ うさぎ うさぎ  何見てはねる
      十五夜お月さま 見て は〜ねる♪

月の光に照らされ嬉くなってはねる、うさぎさんたち、微笑ましいですねえ。歌の中のうさぎさんのように、私たちも美しい自然を前にすると、思わず歌いたくなったり、踊りたくなってきませんか?

ところで、もし「あなたの寿命があとわずかと分かったら、何をしますか?」と問われたら、私は「朝から晩まで踊り続けたい!」と、迷わず答えることでしょう。そ れほど私にとって「踊ること」は大きな意味を持っています。

●自分の生命を守る内なる体の声
私がバレエを始めたのは3才の時でした。内息だった私は、いつの間にか自分の悲しみや怒りの感情を外に出さず、踊りの中で表現しながら自己解決していくような子どもに成長していました。大学を卒業した当時、色々な悩みが重なり、生きている実感が乏しく、魂が抜けたような姿で教壇に立っていました。

その頃、まだ陽の昇らない明け方に起きて、始発電車で勤務先の福岡女子短大へ行っていました。大宰府の丘の上に立つ短大の坂を登り、誰一人いない薄暗い体育館のサブコートの鏡の前で、レオタード姿でバレエの基礎レッスンを始めたのです。

雪降りつもり凍えるような冬の日も欠かさず、毎日ひたすらにレッスンを続けました。(暖房はありません)手や足の指先まで、全身の隅々まで繊細に神経を行き届かせながら、ゆっくりゆ っくりと自分の体を感じながらのレッスンです。

すると、自分の体が空気のように感じられ周囲との境目がなく、その部屋の空気の一部に自分がなる気体のような感覚で、自然の一部になれた心地よい不思議な体験でした。

太陽が昇ってくると、サブコートの窓から差し込んでくる朝の光が部屋いっぱいに拡がっていきます。その光は生命の全てを受け入れ、母親の胎内の羊水のようにあたたかく、やわらかく、私を包んでくれました。するとどこからか「あきこは今ここに生きているよ」「生きていていいんだよ」という声が聞こえてくるようになりました。涙が溢れてきて「そうだ、 私は生きているんだ」という実感が蘇っていくのです。

そんなレッスンを来る日も来る 日も続けながら、私はこの時期を乗り越えることができました。(私は踊りながらボデ ィートークをしていたのですね)そしてこの声こそ、自分の内にある《自分の生命を守る体の声》だったのです。

●危機を乗り越えていく生命の力
私たちの生命は進化の過程にストレスがあったからこそ、様々な適応力が膨らみ、 これまで生命を繋いで来れたことは皆さんもご存知のところです。これからは災害や事故、また高齢になっていくなど、自分の体や心が大きく変化してくことが増えていく時代です。

でも私たちの生命の奥には、普段はほとんど使わ れていない山ほどの素晴らしい生きる力が内在しているのです。それは生命が非常事態になった時にその力を発揮してくれる生命の力です。

今年は「オリンピックの年でもありました。感動的なシーンがいくつも放映さ れましたが、私の心に最も残ったのは、パラリンピックに出場したある選手の言葉 でした。「足を失ったからこそ、私の隠されていた素晴らしい力を発揮するチャン スを得ることができたのだ」「失ってはいない、得たのだ」と。この選手の目は、 どの金メダルよりもキラキラと輝いているように私は感じられました。

●いつもいつも、あなたの中に青い鳥はいるよ ≪ボディートークとは体のおしゃべり》です。あなたはどんなおしゃべりをしてい ますか? 自分の生命の終わる、その最後の日まで、こよなく自分の生命をあたたかくやさしい息で包み、「よく頑張ったね」「えらかったね」「よく生きてきたね」 と声をかけてあげて下さい、すると、自分の内なる青い鳥の幸せの声が、どこからかきっと聞こえてくる、と思います




机運びで試してみる~自分感覚を磨くチャンス

異和感があると相手と距離保つ

本音は無意謙下の行動に現れる。意讃でどんなに隠そうとしても言葉の端々や何気ない仕草にポロッと出てしまう。憲讃でカバーできるのは所詮、達前であって、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、なのである。

例えば二人、並んで歩くとしよう。相手が自分を嫌っているか、好意を持っているかは足を運ぶタイミングに現れる。然り気なく 自分の歩くテンポを変化させて、相手がそれにどのように対応するかを調べてみれば判る。

好意を持ってくれている場合は、何の躊躇もなく変化に応じてくれるので、共に歩いていで も疲れない。タイミングが自然に合うのであるc 恋人の場合は更に積極的にお互いのタイミングを合わそうとするので、気が気を高め合って足が軽くなり、何時間でも歩ける。

反対に謙悪感を持たれている時は大変だ。一歩一歩確実にタイミングをズラしてくるから、お互いに足の運びは重くなる。だから百メートル歩くのでも疲れる。階段を登る時は更に顕著

だ。同時に足を上げてくれれば楽に登れるのに、ほんのわずかずつ遅れて上げてくるものだから、   まるで相手を引きずって登るみたいなものである。もちろん相手はわざと遅らせているのではなく本人も気付いていないのだ。
つまりこのような歩くタイミングは、良きにつけ悪しきにつけ無意識の感情の中でコントロールされている。即ち好意を持っている人の時は絹和感を楽しみ、嫌悪感を持っている人の時は異和感を持ち続けることで相手との距離を保っているのである。

では、韻和感や異和感がどのようなものであるかを体で直接、確かめてみよう。両手を合わせ   指を組んでみる。この時、左右どちらの観指が上になっているか?
手の組み方は遺伝によって決定されている。右手の親指が上になれば優性遺伝。左手の親指が上になると劣勢遺伝である。人は各々の遺伝に従って何の矛盾なく自分の組み方をするので、手と手はなじみ合って親和感がある。そこで手を組み讐えて、遣伝ではない方でギュッと握ってみよう。
こうすると手にたちまち不快感が走る。これが異和感である。

嫌いな人と接する時、人は無意議の中で自ら異和感を作り出す。自ら作り出すことで自分自身を納得させているのである。
この法則を私の友人に話したところ、彼は「なるほど」と深くうなづいた。というのは彼にはイヤミな上司がいて、叱言がネチッこい。そこでお叱りを受ける時は、遣伝ではない方の手の組み方をわざとしていたのだ。そうするとその時間が耐えられる。
ポディートークでは、この無意識下の親和感や異和感を意識のレペルにまで高めて積極的に活用する。

机運びで息を合わせる

活用の一例を述べよう。社員研修で「長机を二人で運ぶ」というシーンである。まずは何も説明で机を運んでもらう。早く済ませようと焦る組もあるし、イヤだなあ、とクズグズする組もある。スムーズに落ち着いて運ぶ組もあるが、私から見ればそれでも上手いとは言えない。実は、机運びはボディートークを活かす絶好のチャンスなのである。自分の感覚を研ぎ澄ます実践の場なのである。

相手が机を運ぶタイミングは、机を通じてこちらに伝わってくる。そこで、持ち上げる瞬間や手の高さ、歩き出すタイミングやテンポ、運び終わって机を下ろすタイミングなどをピタッと一致させる。そうすると相手はまるで自分一人が机を運んでいるような錯覚さえ覚える。そういう説明をして机運びをしてもらうと会場の空気は静かに、和やかなものとなる。みんな机から伝わる感覚と自分の動きに集中し始めるからである。

相手の一挙手一投足に集中をして、タイミングをビタリと合わせる成功感を楽しむと、時の経つてれ、次第にテンポも上がってくる。そうすると息が弾んできて楽しくなる。あと机をいくつ運ばなくてはなどと考えていない,タイミング合わせを楽しんでいるうちに、何時の間にか終わってしまったという具合である。

「 息が合う」チームワークは、このようにして 身に付いてくる。




氷山に例えれば意識は水面下に

心の働きは必ず体に表れる。どんなに隠そうとしても息の仕方や仕草、何気ない言葉の端々にポロッと出てしまう。 ただ人はそうそう他人の微妙な行動にまで注意を払っていないから、気付かないだけのことである。見る目のある人 が見れば瞬時にバレてしまう。 

先日、私は家族そろって、レストランで食事をして いた。隣の席には就職が最近決まったらしい若者と、その親戚らしい中年の女性が向かい合って座っていた。中年の女性はさかんに若者を激励している。周囲をはばからぬガラガラ声でしゃべりまくっ ているので聞くまいと思っても耳に入ってしまう。

「あんたナァ、会社に入ったら真っ先にぶつかるのが 人間関係や。そやけど絶対、ガァ(我)張ったらアカン で。どないに気ィ合わん奴でもニコニコしとくのがコツや。ウチら会社におった時は、嫌いなんてこと煙にも出さんかったでぇ。」 

その言葉を聞くや否や、それまで澄まして食事をしていた私の娘二人は、口に手を当てて必死に笑いをこらえている。私も思わず顔を見合わせてつい笑ってしまった。 

その女性には失礼になって申し訳けないが敢えて述べよう。「おくびにも出さん」と いうところを「煙にも・・・」という言葉になっているのが何とも新鮮であったが、それにも増して面白かったのは、その女性が嫌いな感情を隠し通したつもりになっていることである。これだけ開けっ広げで豪快な人間が、ありとあらゆる場面で気遣いをして自分の内面を出さないようにする、などと言うことは出来っこないのである。 

ご存知のように人間の脳の働きは氷山に例えられる。意識というのは、水面上に顔を出した氷山の一角みたいなものである。大部分を占める無意識の働きは水面下にある。 人間の行動も同様である。意識的に動いている部分はほんの僅かで、大部分の行動は 無意識下に行われる。そして無意識の行動に本心が表れてしまうのである。 

私が高校を退職して、初めて企業の社員研修で講演した時のことである。当時はボディートークという名前すら付けていなかったので、企業の担当者も受講生たちも私がどんなことをするのか知らなかった。 

会場に入ると全員がノートを机の上に広げ椅子に整然と座っている。「人間関係をス ムーズにするには?」という演題だったので、すっかり心理学の講座と間違われたようだ。 

私のやり方は、体を使い声を出して、全身表現の中で人間関係を解明していく、体ぐるみの思考方法なのだ。従って会場には黒板一つあればいい。あとは何もないフロアーで 自由に体を動かすことができればいい。 

早速みんなに机と椅子を片付けてもらった。すると床に細かいゴミが目立つ。掃除機をかける時間が惜しいので、全員で一分間、ゴミを拾うことにした。 一斉に始めて、三十秒ほどたった時、私は笛を吹いて拾うのをストップしてもらった。 そして「突然止めて申し訳けないが、ここで自分の手の中にあるゴミの数を数えてほしい」と指示した。 

最高は十二個であった。この人は本気で拾おうとし た人であり、他を抜きんでていた。数個拾ったという人も多かったが、まず良心的と言えるだろう。ところ が一個だけという人がなんと全体の三分の一もいたのである。 

こういう人は形だけのゴミ拾いである。とにかく一 つ拾ったのだから、これで名目は立つだろう。あとは 掃除をやりたい者だけがやればいい、という考えである。 

そこで私は本音とは、無意識の行動にそのまま表れること、そして自分自身も気づかない本心が相手の無意識に働きかけて、それが人 間関係を作っていくのだという話をした。 

残りの三十秒はゴミ拾いで会場がスッキリと美 しくなったのは言うまでもない。 

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焦りの気持ちがやがて五十肩に

肩の力を抜くことは大変にむずかしい。抜いたつもりでも力ん でいることが多い。 ところで、肩に力が入っているのか否かを調べる方法がある。


まず二人で向かい合う。調べられる人は両腕をダラリと下ろし て静かに立っている。調べる人は、その人のどちらかの肘を持っ て肩の高さまで上げてみる。肩の力が抜けている場合はズシッと重みを感じる。平均的な女性の腕で5~6kgの重さはあるのだから、腕一本といえども随分重い。そして調べる人がその肘からサッと手を離すと持ち上げられていた肘はストンと下へ落ちるはずである。


これとは逆に、肩に力が入っている人の肘は持ち上げてみても重く感じられない。何故なら腕を自ら支えてしまっているからだ。このような人の肘は、手を離してもダランと下へ落ちては来ない。
「肘が上がったままだよ」と注意してやると、慌てて自分で手を下ろしたりする。


肩に力が入るのは精神的な要因であることが多い。即ち焦りの気持ちである。焦りの気持ちは肩甲骨の中央部にしこりを作る。そしてこのしこりは不思議なことに触られて初めて痛みを感じるわけなのだ。


肩甲骨中央部のしこりが更に強くなると、肩の付け根の筋肉が固くなって血行も悪くなっていく。 そうすると肩関節を中心にその周囲が炎症を起こす。やがて腕の方にも痛みが走り始める。俗に言う五十肩の症状である。五十肩になると痛みのために腕が上がらなかったり、肩に手が回せなくなる。そのために誰でも事ここに至れば治療を本気に考えざるを得ない。


運動療法としては、痛む方の腕を反対の手で握ってストレッチングを行ったり、アイロンをぶら 下げて腕を振ってみたり、痛む方の手でタオルを握って反対の手でそのタオルをいろいろに引っ張ってみたりするようだ。


この場合に一つ問題がある。それは息である。痛みをガマンして腕を動かすために息を詰めてしまうのである。息を詰めると筋肉は固くなる。だからボディートークでは声を出しながら運動を行う。

まず正座をして、次に両手を前につく。頭をストンと落とすと、両肩甲骨が最も高い位置になる。 この姿勢で「アー」と発声しながら上体を左右に揺らすのである。肩甲骨と肩甲骨とをこすり合わ せるイメージである。


虎が座っている姿に似ているので「虎の背揺らし」という。この運動は行うほどに背骨がよくほぐれて、上体がヘビのようにクネクネする。そうすると焦りのしこりがとれていくのである。


このように声を出しながら体を揺するのがコツであるが、発声は少し意識しないと出にくいもの である。折角「虎の背揺らし」をしていても、気がつけば黙ってやっていたというようなことがよくある。


座って体を震わせているのが「貧乏ゆすり」である。これは焦りの気持ちが無意識に足を揺すらせる。気が急くと息が速くなり、体が硬張ってくる。体はその緊張のエネルギーを本能的に逃がそうとして、最も動きやすい足を小刻みに震わすのである。傍目には見苦しく、せわしないので「貧乏ゆすり」と言うのであろう。


陸上競技界のスーパースターであるカール・ルイスも競技場で絶えず両足を震わせている。インタビューの最中でもやっている。しかし、この場合は「貧乏ゆすり」とは呼ばない。何故か。カール・ルイスもやはり心の緊張が足を固くす るので、足のリラックスのために行っているのであるが、実は意識的に動かしているのである。

意識的に行う場合は柔らく動かすので、緩急自在に震わすことができる。 ボディートークではこれに更に発声を加えて行う。
こうして体の緊張がとれると同時に息もほぐれるので気持ちも楽になる。
私はこの素晴らしい運動を「美貌ゆすり」と名付けた。