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自発的なコーラスのすごみ

* 生徒が与えてくれた感動 

四十年近くも前のことなのに今も私の耳にしっか りと聞こえてくる歌声があります。 高校三年生のあるクラスが合唱コンクールで歌った「出発の歌」です。もう一度、聞いてみたいコーラスは? と 問われれば、私は迷わずに彼らの演奏を挙げるでしょう。 

当時、私は島本高校で音楽の教師をしていまし た。一年生の担任だったのです。 秋には生徒会主催の合唱コンクールがあり、 各クラスで自由に一 曲を選んで発表をする行事がありました。 まず 学年毎にコンクールをして一位を決め、 文化祭で学年毎の代表として、父母にも披露するのです。 ところが、 我がクラスは練習になかなか取り組もうとせず、仕方がないので私が混声四 部合唱「バスの歌」を提案し、 ボール紙で作った吊り革を全員が持って、クラスみんなで一斉に傾いたり、歩いたりして歌うことになりした。 

放課後の15分程練習に当てるのですが、 担任が音楽の先生だと、 少しずつ いい感じでまとまってきます。 その評判を聞いて三年生のあるクラスが対抗意識を燃やしました。 音楽の先生なんかに負けるものか、とクラスが一丸となって「出発の歌」を練習し始めたのです。 

コンクールの数日前に、そのクラスから私のクラスに、 お互いに聞き合うた めの交歓会を開きたい、という申し出がありました。 もちろんOKです。 私のクラスは三年生と言えども恐れるに足りず、 と悠然と構えていました。 コンクールを目前に控えて、 私も放課後の練習に熱を入れていましたから。 

交歓会では私のクラスが先に歌いました。 軽妙なリズムに乗って、 吊り革を片手に、楽しく揺れるコーラスです。 神妙に聞いていた三年生の口から溜息が漏れています。 次に彼らのコーラスです。 女生徒を真ん中に、 男生徒が両端に横二列となって緊張の面持ちで歌い始めました。 

「乾いた空を 見上げているのは誰だ」 斉唱でやや重く、 押さえた表現です。 

ですが、私の指導する音楽の授業では聞くことのない底力が感じられ、 ハッと息を飲まされました。 そして後半「さあー今、銀河の向こうに飛んでゆけ~♪」 と二部合唱になってクライマックスへと盛り上がります。 聞いている一年生の 目が一斉に見開きました。「ウワァー、ステレオみたい!」 と、 ある男の子はつぶやきました。 「すごい!」 女の子たちはうっとりです。 

教室全体がビリビリと振動する迫力だったのです。 生命がほとばしる、とでも言うのでしょうか。 こんなにも生徒が一体となって、 一生懸命に、 ただひたすらに全身を声にして歌っている! 私は未だかつて、こんなに感動的なコー ラスを経験したことがありませんでした。 いよいよ最後に一人の男子生徒のオブリガートが力強くかぶさって、 雄大な広がりを感じさせながらコーラスは終わりました。 

私の目には涙があふれて、 しばらく声も出ませんでした。 生徒達が本気になっ て自主的に取り組んだ演奏のすごさを目の当たりにしたのです。 私が全力を つくして指導してもやり得ないコーラスの素晴らしさを、 生徒達の力でやり遂げたのです。 脱帽の思いと同時に、この瞬間に立ち会っている我が身の幸せを深く味わいました。 

* クラスのすご味 一丸となって 

生徒達が与えてくれた感動はその他にもいろいろありますが、 忘れ得ぬもうひとつのシーンは、 前任校である三島高校を去る日の出来事です。 

転任をする先生のために、 送別式が行われました。 体育館に千名ほどの生徒が座り、壇上では送られる先生が次々と挨拶をします。 その中で私は最年少でしたから最後に立ちました。

話し終えて、 生徒達に 「ありがとうございました」 と頭を下げたとたん、 ピーと口笛が鳴りました。 それを合図に、女子生徒や男子生徒がカーネーションを一輪ずつ持って「ワー」と叫びながら壇上へ駆け上って来ました。 静寂を打ち破っての一瞬の事なので「何だろう」 と思う間もなく、私は花のプレゼントと女生徒の群れに、もみくちゃにされてしまいました。

担任をしたクラスの生徒達からの別れのパフォーマンスだったのです。当日の朝にクラスで相談したのだそうです。 女子生徒は私に花を、 男子生徒は他の先生たちへ花のおすそ分けを、という粋な演出です。 生徒達の発想の大胆さと、 いっぱいの真心に、 こんなに幸せでいいのだろうか! としみじみ教師をして いて良かったと思いました。 今回は、高校生の自発的な生命の❝輝き❞をお伝えしたかったのです。




ローランサンの絵に佇む女性

モネの絵は、やわらかな色彩がそこはかとなく漂って、観る人の心を和ませます。 本物を観たくて私は時々パリへ行きますが、 有名な「睡蓮」の大作はセーヌ河のほとり、 オランジュリー美術館の「睡蓮の間」にあります。 別室にはルノアールやゴッホやドラクロアなど、美術の本でよくお目にかかる有名な絵がたくさんあって、時の経つのも忘れる夢の館です。

その中に女流画家マリー・ローランサンの絵がいくつか展示されているコーナーがありました。薄紫色を基調に、 優しいタッチで女性が描かれています。 私は椅子に腰掛けて、 ゆったりと眺めていました。 そこへ、 人目もはばからずにおしゃべりをしながら、 数人のおばさん連れが入って来ました。 大阪弁で、 いかにも買い物を目的にパリにやって来た、という風で全身これブランド品で飾り立てています。

これはヤバイ、と私が腰を浮かせた時、 その中の一人がローランサンの絵の前に立ち、「うわー、 この絵。 私の店にあるのと同じ」とささやきました。 その声は、今までの押し付けがましいガラガラ声から一変して、やわらかく秘密めいて、少女のような恥じらいがありました。 両手を組んで胸に当て、 ローランサンの絵をうっとりと見つめている代表的な大阪のおばさんの姿に、私は思わず魅入りました。

* 本物は人の心を素直にさせる!

この女性も、「心の奥底はナイーブで繊細で穏やかなんだろうなあ。 だけど客商売で毎日、気を張って、体を張って、押しを強くして生きてきたんだろうあ。」 それが思いがけずローランサンの絵に出会って、 しかもお店に飾ってある絵の本物に巡りあったので、一気に 「素の自分」に戻ったんだろうなあ。

そう思って見ている私の心も、ふんわりと春の陽気になっていたのでしょう。
本物の絵はSimpleで明快です。 そして個性的です。 モネは、どの絵を見てもモ
ネですし、 ローランサンの絵は一目見て、迷うことなくローランサンです。 そ
はボディートークで言えば、「生命の躍動」 が研ぎ澄まされて 「本来の自分」
が充分に発揮された表現だからです。

私たちの誰もが 「生命の輝き」で生きています。 もともと生命は〝ふつふつ”と湧き出て、元気になろう、 もっと弾もう、しているものなのです。 この元気になろうとする勢いの方向が生命の道、「 TAO」です。

そして私たちは宇宙の必然的な流れに乗って、オノズカラ誕生しました。両親、生活環時代等など、諸々の条件の下に与えられオノズカラの生命を素直に膨らませると、「本来の自分」 が育っていきます。

「本来の自分」 が育つには行動を決定するにはミズカラの意思が大切です。 私たちの人生は、与えられたオノズカラなる 「生命の躍動」 をベースに、ミズカラの意思決定によって創りあげている、と言えるでしょう。

* オノズカラなる「生命の運動」ミズカラなる 「本来の自分」=その人の個性

ところが、人生はそう易々とは順調に進みません。 現実には病気あり、人間
関係のいざこざあり、仕事の行き詰まりあり、能力の限界あり、社会のひずみあり、地球環境の問題ありで 「現実の自分」は、しこりやユガミをいっぱい身につけています。

ボディートークでは、あまりに悩みやストレスで身を固め、息を詰めている人
を「毒まんじゅう」と称して、体ほぐしで 「毒抜き」をします。 また体を揺すって、発声をすることで「毒の息」を解放します。 毒を抜くために泣いたり、わめいたり、足をバタバタさせたり、怒ったりの「毒抜き表現」は、人に見せるためのものではありません。

そういうのを踊りや演劇として舞台に乗せている人もありますが、本人は毒が抜けて快いかも知れませんが、 見せられるものではありません。 シコリやユガミをできる限り取り去って「本来の自分」に立ち戻り「生命の躍動」をふくらませて、個性に磨きをかけること、私は表現をこのように考えています。




青い鳥は表現のベース

病気、未病の前に違和感

ただ単に発熱しているとか、 咳が出る、 痛みを感じるとかの状態を病気とは言いません。 西洋医学の見地では病気とは 「器質的疾患」のことを言 います。 すなわち、 病理学者が解剖をして、はっ きりと異常だと確認できる状態のことです。

直腸にガンが出来ているとか、 脳の血管が詰まってい るとかの例です。
ですが器質的な疾患は、 事故以外では突然やってくるものではありません。 その前に病気以前の病気という状態があります。 腰が痛むとか、 手足がしびれるとかの症状で、 西洋医学では 「機能的疾患」或いは「未完成の病態」と呼んでいます。 世俗的には 「半病人」というところでしょう。

東洋医学には「未病を治す」 という考えが ありますが、東洋医学の「未病」とは西洋医学の 「機能的疾患」 にほぼ一致するでしょう。

ほぼ、 と言いましたのは各々の医学で病気の捉え方が異なるからです。 ひとつには「未病」とは 「役に立つよい病気」と東洋医学では考えていますが、 西洋医学にはそのような発想はありません。

ボディートークは医療とは考えていませんが、 現実にはさまざまな病的症状を解消して元気を回復する健康法でもあります。 「生命の道」 は元気になるように出来ています。 ですから歪んだ心や体の状態を、いつも「あるべきものが、 あるべきところに、 あるべきようにある」 というように戻します。 あとは、自分の内なる自然治癒力の高まりを信頼すればいいのです。

その意味でボディートークは「未病」 「病気」 以前の、 心や体の「違和感」 に焦点を当てます。 例えば寝ていた犬が起き上がると、 犬はお腹に 「違和感」 を覚えます。 横になって眠っている間に内臓が引力によって地面の方へ片寄ってしまうからです。 それで犬は胴ぶるいをします。 ブルブルッとお腹を揺すると、内臓が一瞬にして正しい位置に納まります。

人間はこの 「違和感」 に対して鈍いですね。 頭の働きが発達したために、 つ
いつい思考の方へエネルギーがいってしまって、本能的な感覚が隠れてしまうのでしょう。

ボディートークは心と頭と体の働きをバランス良く高め、「内感能力」によって「違和感」を鋭くキャッチする方法ですから、痛むまでもなく 「アレッ?」と感じたとたんに、内部を適確に揺すって正常な状態に戻します。 このように動物は基本的に 「違和感」 の段階で、 それを解消するための自然 な動きを行って健康を保っています。 この動きを人間に当てはめれば整体運動と呼べるでしょうか。

運動というよりむしろ「うごめき」 すなわち 「蠢動」と 呼ぶ方がふさわしいかもしれません。 その「蠢動」に私は発声を加えました。 「アー」と言いながら体の内部を揺するのです。 あるいは 「ホッホッホッ」と 言いながら軽やかに足踏みをするのです。

どうして 「アー」 なのですか? どうして 「ホッ」 なのですか? 「イー」 ではいけませんか、 「ウッ」ではいけませんか、と尋ねる人が時々あります。 整体運動での 「アー」 や 「ホッ」は言語としての「アー」 や 「ホッ」ではありません。

口をポカーンと開いて、 すなわち呼気を開 いて発声すればおのずと 「アー」という響きになり、 あるいは「ホッ」と聞こえるような声になるのです。 人間は他の動物よりはるかに高度で複雑な生き方 をしていますから、 整体運動もそれなりに工夫しな ければなりません。 整体運動に発声を加えたのは、 特に息をほぐすことが重要と考えたからです。

動物は不快な感情を持ったり、ストレスが大きく かかってくると、 息を詰めます。 まして人間は先々のことまで予測して不安感をつのらせますから、 息の詰まりも複雑です。 息の在り方はそのままその人の 生き方でもあるのです。 だから息をほぐすように発声をして体を揺するという のは、やわらかく、 ゆったりとした、 自然で素直な息を得る方法なのです。 い い息がいい生き方を導いてくれるのです。

この息が表現のベースとなります。 怒りや憎しみを直接ぶつける表現も、世間にはありますが、 ボディートークではこのような毒気のある息は、 先ず体ほぐし や整体運動で抜くことにしています。

毒のある表現は本人には毒出しで快感かもしれませんが、 受ける側を傷つけることになりかねませんから、ボディートークによる自由表現法のプログラムに入る前やボーカルダンスを 練習する前に、必ず整体運動を行い、 体ほぐしをするのは、このようにいい息 から出発したいからです。 そしてこのシステムが同時に健康への道となってい るのです。




時を忘れ、我を忘れて

<一切忘却する大ジャンプ 

長野でも過去、冬季オリンピックが開催されました。 ます。競技の花形は何と言っても大ジャンプでしょ う。雪の斜面を百メートルを越えて飛び続けるのですから人間技の限界に挑んでいるわけです。 ジャンプ台に立つと、おそらく真っ逆さまに谷底へ落 ちていく感じがするのではないでしょうか。 

50年ほど昔の競技を映像で見てみますと、 どの国の選手もお尻を引いて、 へっぴり腰で飛んでい ます。 飛距離も今の半分ぐらいです。 現在の跳躍姿勢はスキー板をV字形にして腰を真っすぐに伸ばし、見事な前傾飛行です。 

これだけのことをするためには才能はもちろんのこと、年がら年中ひたすらトレーニングを積むことが必要でしょ う。そして、この極限のパフォーマンスを行う一流選手たちが一様に到達した境地は 「ジャンプとは忘却なり」ということでした。 晴れの舞台で何もかも忘れて飛ぶことができれば最高の成績が残せると言うのです。 至福の一瞬でしょうね。 この忘却は、磨きに磨きをかけた芸術作品でしょう。 

ここまで到らなくても、 私たちの日常生活では 「意識的にあることを忘れる」 ことによって物事がスムーズに運びます。 物忘れを老化現象のように嘆く人があ りますが、 私たちの脳は嫌なこと、 失敗したこと、 覚えたくないことは本能的に意識の世界から無意識の世界へ押しやるシステムになっています。 今回はこの忘れる能力を積極的に活用しようという提案です。 

高校一年生の夏でしたか、 数学のテストで難問に挑んでいました。 すると、も うちょっとで解けそうなのに、残り時間のことが気になってなかなか一歩先へ頭が集中しないのです。 とうとう間に合わなくて悔しい思いをしました。 その時、 心に決めたのです。「私は時間に振りまわされる人生を送らないぞ」と。 

その日以来、今日に至るまで私は腕時計をしたことがありません。 もちろん時間の段取りはあらかじめしておく必要があります。 しかし一旦段取りが決まれば、 あとは時間を忘れて目の前のことに没頭するのです。 

例えば食事をする時、 あと何分、 あと何分と思って食べているとちっともおい しくありません。 三十分ある時と一時間ある時では自ずと食べるペースが違いますから、自分の体に任せればいいのです。

次に変な話で申し訳ありませんが、 電車の待ち時間にトイレに行く時も電車が来ることを一瞬忘れるようにしています。 排泄行為には快感があるように神様は体を設計していますから、ゆっくりと楽しむようにしています。 どのみち、 その最中に電車が来ても途中で止めることはできないのですから。 

創作行為に時を忘れて熱中するということも大事です。 絵を描く時、 詩や作曲 をする時、はたまた活け花をしたり、 料理をこしらえたり、 掃除をしたりする時だってそうです。積極的に時間を忘れるだけで楽しさと集中力は倍増します。 

子供たちと遊ぶ時は自分が大人であることを忘れる方がよろしい。 年齢を捨て ることが共に遊ぶ世界をふくらませることになります。 

<充実させる方法> 

テレビで動物王国の畑ムツゴロウさんを見る毎に感じることなのですが、 犬や熊や、その他どんな動物とでも嬉々としてたわむれている彼は、おそらくその瞬間には 、人間であることを忘れているのだろうなあ、と羨ましく 思います。 子供の教育には何を忘れたらいいのでしょう 

子供は子供なりに人生の波をくぐり抜けることで成長します。 不登校やいじめ問題、あるいは家庭問題など、 大きな波に直面した時には世間体を忘れることです。 他人 や親兄弟に対する見栄を捨てることです。 そうすれば本来の解決の道へ全力を投 することができます。

数年前に茨城県で起きた両親が息子をバットで殺した事 件も、ひとつには模範的な教育者であった両親が世間体を捨てられなかった要因 が大きかったと考えられます。 

私事で恐縮ですが全国を講演にまわっていますと、 司会の方から「話術の巧み な増田先生」と紹介されることがあります。 私としては思いもよらないことなの で「エッ?」とびっくりするのですが、 ボディートークの話をするときは私は話 すテクニックということを一切考えません。 真実を伝えることに集中するのです。

もし私が上手くしゃべってやろうと考えれば、 その気持ちやテクニックが前面に 出て、 会場はシラけた空気になるでしょう。 歌でも踊りでも人前で表現する時は、 テクニックを忘れることです。 練習には テクニックを研ぎ澄ます必要がありますが、本番では周辺のことは一切忘れて、 もちろん我も忘れて、 内容のみをていねいに伝えることに専念したいものです。




アメリカでリスに噛まれた?!

人さし指が臭っ白に

アメリカン・ダンスセラピー年次大会に参加したときの事です。 11月初旬のフィラデルフィアは急に冷えこんだのか紅葉が鮮やかで、整然と区画された街並みに落葉がたくさん舞い、 晩秋の深い色わいでした。 ボディートークの講演もおかげ様で大好評で、これからアメリカでも着実に広がる気配です。

講演をする日の朝に、日本から共に参加したAさんにハプニングが起きました。 リスに指を噛まれたのです。野生の小動物の牙には、どんな雑菌が付いているかわかりません。 まして外国の地です。 日本で得ている体内の免疫では役に立たないこともあるのです。

以下はその顛末です。フィラデルフィアの公園には、木の一本一本にリスが住んでいます。とても人に馴れていて、 パンやお菓子を手に持っていると、遠くからでもピョンピョンと跳びはねてやってきます。 そして小っちゃな手を胸に当てて、おねだりをします。

あまりの可愛い仕草にAさんは少しずっちぎっては口先へ与えていました。
ところが数回与えるうちに、リスも大胆になったのか一度にたくさん奪おうと
ばかりにバンを持っている指先も一緒にかじったのです。 反射的にAさんは手
を振りました。

リスはその反動で宙に舞いました。指先には歯型が2つ付いていて血がにじんでいます。 ホテルに戻ってすぐに水洗いをしました。 痛みもなく腫れもこないので、何も処置をしないでしばらく様子を見ようということになりました。 後で気付いたのですが、その直後に口で毒を少しでも吸い出しておけばよかったと思いました。

その後、Aさんはボーカル・ダンスの発表をしましたので、傷のことはすっかり忘れていましたが、 夜になって指先が少し痛み始めました。 そして翌朝になると指先はしっかりと腫れ、痛みも強くなりました。そして昼には全身がだるく重くなり、レクチャーも聞けず、ベッドに寝込むことになりました。 微熱と頭痛と吐き気です

この時点で、私はAさんの体ほぐしをしました。 背骨を揺すると見事に胸椎9番 にヒリッと痛みが走ります。 これは「しまった」という後悔の気持ちの表れてす。 もちろん「あきらめ切れない焦りの下腹部を固めています。 薬を使うこともチラッと頭をかすめましたが、自力で何とかなりそうに感じましたし、Aさんもここ は免疫力をつけようと決心した様子なので、 安静にして症状の経過を見ることにし ました。

夕方になると、痛みは手のひらから全身に広がり、 特に首や脇下のリンパ節が激 しく痛みます。 そしてシビレか身体中に次々と移動していきました。 水分も食物も一切受けつけられず、すべてのエネルギーが菌と戦っていると感じたそうです。

夜には噛まれた指全体が真っ白になったので、指でこすって神経をほぐしたり、 ベッドの中でモゾモゾと動く動きで、痛みを逃したりしているうちに、急にストンと憑き物が落ちたように体が楽になったと言います。 ピークが過ぎたのです。

一眠りして起きてみると、 指先に少し腫れと痛みが残っている ものの気分はスッキリとし、 食欲が出てきました。

こうしてAさんの体にはアメリカのリスに対する免疫力が出来たと考えられます。 免疫とは、ご存知のように外部から侵入した毒素に対して、リンパ球と白血球が退治してくれ、一度退治した毒素はリンパ球が記憶し、次に同じ毒素が侵入しても直ちに防御してくれるので発病しないという自然治癒力です。

私たちは生まれてこの方、 経験をした無数の雑菌の毒素に対して免疫力をつけているのですが、 発病に際して自然治癒力を発揮させないで抗生物質などに頼り過ぎていると、O-157のような弱い菌にも太刀打ちできないで、免疫力低下から 生命を落とすところまで行ってしまうのです。
今回のハプニングで貴重な気付きがいくつかありました。




直感力を磨こう

振動数を言い当てる能力

マツタケを見つけ出す名犬がテレビで紹介され ていました。 飼い主と共に山に入ると、 さかんに 匂いを嗅ぎまわってマツタケの生えているところ へ急行し、見つけるや否やバクッと食べてしまい ます。 飼い主はあわてて犬を引き戻し、 近くのマ ツタケを掘り起こすという段取りです。

犬の嗅覚は人間の1000倍ほど鋭いと言われてい ますから、この能力に関しては私たちは全く脱帽せざるを得ないのですが、 人間だってなかなかど うして、動物にはできないすばらしい直感力を有 しています。

今、仮に空気中に起こる空気の振動数を、機械で測定している宇宙人がいるとします。 彼は色々装置の工夫をしてやっと今の空気の振動数は、1秒間に440回で
あることを知ったとします。 ところが私の耳なら、今の振動数は440回だったか445回だったかぐらいなら、一瞬にして判断することができます。

即ち空気の振動は音となって私たちの耳に響きますから、1秒間に440回振動すればバイオリンの上から二番目の弦、ラの音が鳴っているのです。 このラの音は国際標準ピッチで440振動と定められていたのですが、 第二次世界大戦後から少しずつ高くなって、現在ではオーケストラの演奏会ピッチは445になっています。

だからピアノで同じラの鍵盤を押しても440振動に調律してあるのか445に高めてあるのかは響きで認識できるのです。 音を感じなくて、振動数だけを測定できる宇宙人にとっては、この人間の能力は不思議以外の何物でもないでしょう。

人間の思考能力も、 空気の振動数と音現象との関係に似ていると私は思います。高校時代に数学の問題を解いていて思い当たったことなのです。 ひとつの 問題を丁寧に解いて、その論理の道筋が頭の中できれいに整理されると、次に数値は違っていても同じ論理で解ける問題は直感的に 「解ける!」 と判断できます。

この時、私の頭の働きは、数式で、或いは言葉で、ここはこうなって次はこう展開して、 従って答えはこうなるというようには巡っていないのです。

AからB、BからC、Cから・・・と行く論理が、 例えばひとつの色合いとなって浮かんでくるのです。 だから新しい問題を解く時はこの色 (という論理)を足してこの色合いで解ける、 というように進みます。 するとまた新しい色という論理体系を身につけたことになって、次の問題へ一瞬にして応用できる、ということになります。

頭のひらめきが豊かな人は、 何がどうしてこうなるという直感の色合いをた
くさん持っているのです。 だから難問にぶつかった時も、一瞬にしてこうすれ
ばいいと判断できるのですが、 何故そうなのか説明してほしいと頼まれると、
色合いをもう一度言葉に直さなければならないので、 大変な作業を強いらこ
とになります。

ボディートークの体系も同じです。 私の中に、 これはボディートークという色合いがあります。 だから一つの動きや考え方に出会った時、ボディートークの色合いに合わなければ、 それはボディートークではない、と即座に言うことができ
ます。

しかし、それを説明するとなると、言葉の論理を引っ張り出すのに四苦八苦することになります。人は飛び降り自殺をする時に、飛んでから地面へたたきつけられる数秒間に人生の全てを思い出すと言われています。 奇跡的に助かった人がそ
う言うからです。

ひとつの色合い

本部のマンションを改装してくれた大工さんが若い時、 オートバイに乗って
いて車に追突しました。 その瞬間、 体が宙に舞ったそうです。 「俺はもうダメ
ダ」と思った時、子供から今までの記憶が全部よみがえってきて、地面に落ちて気を失いました。

ほんの一、二秒の間にそんなにたくさん思い出せるものかと、 信じられないかも知れませんが、 思い出の連なりがひとつの色合いになっていると考えれば
2、3年がひとつの色になっているのですから脳裡にいくつかの色が次々と現われたと考えれは充分に納得できます。

その意味で、人生のひとつひとつの出来事を丁寧に味わって、ひとつひとつを自分の色として深く身につけたいと思っています。




真実の姿はどこに

黒沢明監督の凄さ

学生時代の一時期、私は脚本を書くことに夢中でした。テレビ局に就職をしてドラマを作りたいと思っていました。 だから脚本片手に映画もよく見ました。 すると映画監督の腕がよく分かります。脚本通りに作っている人と、脚本を超えて内容をふくらませている人とがあります。

感服したのは黒沢明監督です。 例えば 「椿三十郎」の始まりは、脚本では素浪人が遠くから歩いて近づき、アップになったところで、 タイトルを出す。というようになっています。ところが、黒沢監督は素浪人の歩く後ろ姿で、それも大きな刀を肩に乗せて、肩から上だけをアップにして始めました。

椿三十郎に扮する三船敏郎がズンズン歩くので、 画面は上下に揺れます。 観客はまるで三船敏郎の背中におぶさって前方を見ているような錯覚に陥ります。

力強く歩く音楽に乗せられて、観客は始まりから主人 公の背中のぬくもりを感じ頼もしく思ってしまいます。そして三船敏郎がほどけかけた後髪をボリボリと掻くところで、タイトルが堂々と出ます。
脚本をあらかじめ読んでイメージしていただけに、 始 まりから強烈なショックで、あとは夢中になって観たのを覚えています。

その黒沢監督の作品に「切腹」 という名画がありました。 江戸時代も中期になって戦さがなくなり、職につけなくなった武士の悲哀を描いた作品です。
ある武家屋敷に一人の浪人が訪れ、武士として人生を送れないことを嘆き、切腹 をして完結したい、 ついてはお庭を拝借したいと頼みます。

屋敷の主はその武士精神に感心をして、切腹するには及ばないと何がしかの金子を与えます。 その話が生活に困窮している浪人たちに伝わります。 そこで浪人たちは、次々と武家屋敷におしかけ、切腹したいと申し出ては金をせしめることに味をしめます。

そのような風潮を苦々しく思っている、とある武家屋敷の出来事で気の弱そうな 若い浪人が切腹をしたい、と訪れます。 家族に食べさせる明日の米がなくて、 窮余の策でしたが、 浪人の予測に反して主はどうぞと庭に招き入れます。 申し出たからには切腹をしろ、という訳です。 浪人の刀が竹ミツであることを見越してのこと です。 追いつめられた浪人は、竹ミツで自分の腹を突き、無残な死を遂げます。

刀を命と考えていた古武士の老義父は、三船敏郎が扮しているのですが、やはり 傘のノリ付けの内職をしている浪人です。 娘ムコが刀を売ってまで家族を支えようとしていたことに愕然とし、悟るところあって武家屋敷に乗り込みます。

主は、切腹したいのならどうぞと庭に招き入れますが、 老義父は本物の刀を前に、 自分の愚かさを恥じ、竹ミツの浪人を武士の名のもとに、切腹させることこそ 武士道に反することではないかとなじります。 そして主のマゲを切り取り、 暴れまわり屋敷の奥座敷に恭しく飾ってあるよろいカブトの前で古式通り切腹をし、壮絶な最後をとげます。

物語はそれで終わりですが、 黒沢監督がその後にちょっと付け足したシーンが素
晴らしい。 庭そうじをしているおじいさんが、後始末をしながら落ちているの マゲに気づき、 ひょいとつまんでゴミ箱にボイと捨てる。 その場面に武家日誌をつけている主の声がかぶさります。 「本日の午後、 浪人が訪れる。 何事もなかった」と。

私はこのラストシーンを観た時、 歴史の文献は表面を鵜呑みにしてはいけないのだ。その時代背景、書いた人、書かれた状況から、その奥に潜む真実を見抜かなければならないのだ、と痛切に感じました。

ステレオグラムという、平面的な絵が左右の目の焦点をずらすことで、立体的に見える見方が数年前に流行しましたが、本音をさぐるということは、このステレオグラムに似ています。 この絵は目の焦点を合わせて普通に見ますと、 模様がゴチャゴチャとして何だかよく分かりません。 ところが絵のもっと奥の方をみるようにしてボンヤリと絵を見ると、 模様の中から例えばウサギだとか、 ハートだとか、 文字だとかが立体的に浮かび上がってきます。

ボディートークでは言葉の奥に潜む息こそが、本音を表すと言っていますが、言 葉の表面上の意味だけにとらわれていれば、本音は見えてこないということです。画家が描く対象を目を見開いてしっかりと見るというよりは、 半眼にして、より深い姿を見ようとするのも同じことです。

映画も、そのものだけを見ていれば、 私はひょっとして黒沢監督の凄さに気付かなかったかもしれません。 脚本にちょっと目を通すだけで、 黒沢監督が意図するものがより鮮明に見えてくることが面白く、 私はそれからは意図して、物事の奥にあるものが何であるかを見るようになりました




恐がるのもひとつのチャンス

お化け大会がキッカケに表現の道がついた Iちゃん

毎年8月には2泊3日の子供ミュージカル合宿を行っています。 子供たちは広い体育館で一日中 歌い、踊り、夜通しおしゃべりに花が咲いて、気 がつくと夜明けけ、という元気いっぱいの内容です。

その中でも子供たちが楽しみにしているのが、 お化け大会です。 お化け役の中高生たちは夕食もそこそこに森へ準備に出かけます。 火の玉がとぶ仕掛けや、おどろおどろしい飾り付け、髪の毛をふりみだしたユカタの女おばけに蛍光色のお面をつけた走るユウレイ等々、 いろんなアイディアが盛りだくさんです。

外が少し暗くなった頃に、他の子供たちは懐中電灯と虫除けスプレーを持ってスタート地点に集合します。 そこで全員の懐中電灯を集めます。「ええーっ、 真っ暗の中を行くの?」と叫び泣き出す子供もいます。

何しろ森の一本道は明かりが全くないので道の区別すら つきません。そこで懐中電灯を道端に置いていって道しるべとするのです。

三人ずつ三分間隔で出発しますが、 先に私が怪談をし「骨と皮の女」の歌を聞かせてムードは作ってあります から、もう泣きながら出掛ける子供もいます。 あんまり恐がる子供はオンブしていきますから、リーダーのお姉さんたちも大変です。
ある年、 こんなに子供を恐がらせるのは良くないのではないかと考えました。 お化け大会はもうこれっきりにしよう。 私は気の進まないまま、スタート地点で子供 たちを送り出していました。

その中に小学5年の1ちゃんがいました。 Iちゃんは1年生からずっとミュージ カルに出演をしていましたから、 お付き合いは長いのです。 しかし、 人前ではほとんどしゃべりません。 しっかり者なのですが、 舞台での表現はあるような無いような、無愛想に突っ立っているという感じです。

ところがその夜は様子が違っていました。 一緒に出掛ける友達と 「お化けなんか恐くないもん。 やってきたらたたいてやる!」と強い口調で言い合っています。 その声は恐がってビクビクなのですが、 必死に強がっているのがほほえましい。

あとでお化け役に聞いたのですが、 I ちゃんたちは大声で歌いながらやって来て、 ギャア ギャア叫んで、 すごい反応ぶりだったようです。
すると翌朝のミュージカルの練習で1ちゃんは変身しました。 積極的に声は出す し、踊りもよく動けているのです。

いつもは後ろの方で踊っていたのですが、 どんどん前に出てきます。 これはお化けで心がふっ切れて、表現の道がついたな、と直感しました。

Iちゃんほどの変身ぶりでなくても、気が付くと自分を出すようになっている子 供たちがちらほら見うけられます。 お化け大会のいい意味でのショックを契機として、互いに親しくなったり、ふざけ合ったり、言いたいことが言えたりしてくるのです。こういう子供たちのためにお化け大会も大きな意義がある、と私は考え直しました。

表現の道は何をきっかけとして生まれてくるのでしょう。 人にもよりますし、時期もあります。 しかし表現の道をつけようと意識すれば、 チャンスは幾らでもあるものです。ただ偶然を待っていると、 そのうちに人生は終わってしまうかもしれません。 少しだけ積極的に行動をしてチャンスをものにしたいですね。

ボディートークでは声を出しながら体の内部を揺することを原則としています。 ところがふと気付くと声が止まっている人が多い。 これは精神的なところに起因しま す。声を出すと自分の内部が表れるのです。 正体が出てしまうのです。 それで無意識の中で口をつぐんでしまう のです。

日頃から自分を隠そうとしている人は、無意識に息をつめています。 詰めているから気楽に声が出せない。 パーティなんかでゲーム的にボディートークを行うことがあります。

そうすると、 格好をつけている男性は「こういうことは苦手でね」 と会場をそっと抜けます。 特に人前で胴ぶるいなんかをすると格好がつけられなくなるからです。まして 「アー」と言いながら行う と心まで丸裸になる感じがするのでしょうね。

表現の道はつけなくても生きてはいけます。 しかし折角授かった一度きりの命ですから、私は充分に心も体も頭も活かして創造的に生きたいと思っています。 ボディ ートークはそのような弾む生命の中から必然的に生まれてきたのです。 表現の道へ のチャンスを逃がさないためにも、声を出しながら体を揺することを是非心掛けて下さい。




表現は自発的に

歌にせよ踊りにせよ、あるいはそれ以前の日常での自己表現にせよ、およそ表現するということ は、本来、自発的に行われるものです。強要されてシブシブ行うのでは、内からの生命の輝きは出てきません。 中国で雑技団を見ました。いわゆるサーカスで す。

その中でも犬のショーは楽しめました。数十 匹の犬たちが所狭しとスベリ台やシーソーを駆け 巡り、高い踏み台を次々と飛び越えてハラハラと させてくれます。指図する人は、犬が思い通りに 動いてくれないので、右往左往してオロオロしています。もちろん、そういう演出なのですが、そ れにしても犬たちはこの演技を楽しんでいます。 だから活き活きと走り回っています。そのスピ ードには爽快感がありました。

いけなかったのがパンダです。首にクサリをつけて、係員が笹を食べさせながら演技をさせるのですが、グルグルと回ったり、細い板の上を歩く位のことです。それをクサリに引っ張られながらノッソリと演じるので、見ていても心が弾んで来ません。どう見てもパ ンダは嫌がっているとしか思えないのです。その意味で無理矢理させられる演技は表現活動とは言えないのではないでしょうか。

人間にも同じようなことがありますね。例えば、レクリェーションの罰ゲームと 称して歌をうたわせるのも、そのひとつ。人前で歌うなんて恥ずかしいっ!と思う 日本人だからこそ罰になるのでしょう。でも嫌々歌っている人の声を、あなたは聞 いていて楽しいですか?

表現は自発的なエネルギーから生まれるものです。生命を自ら弾ませて積極的に 行うものです。それと反対の私の苦い音楽経験をお話ししましょう。
音楽大学でバイオリンの勉強をしていた頃です。先生から「君の音程は四分の一 音、低くなっている」と、よく指摘されました。自分でも確かに音程を少し低くとるクセがあるな、と思っていましたが、なかなか直りません。

歌う時は、自分でもどうしたものかと思案していました。。そして卒業する頃に なってハッと思い当たったのです。

子供時代のバイオリン練習が原因だと気付いたのです。小学校へ入学して、父親 からのバイオリン教育が始まったのですが、毎朝たたき起こされて通学前の練習で す。厳格な父親でしたから、スリッパ片手に教えます。少しでも間違えると、 お尻にスリッパがパシッと飛んできます。それが嫌で嫌で仕方がありませんでし た。

トイレに逃げ込んだり、縁の下に隠れたりと、あの手この手でサボっていたのですが、父親もほとほと手をやいて、私をバイオリニストに育てようという夢を6 年間であきらめてしまいました。

やがて、京大の法学部に入り、三回生になって進路を決める時、やっぱり音楽家 になろうと、音楽大学を目指したのです。音楽と名のつくものなら何でも良かったのですが、バイオリンが一番手近だったので、バイオリンをもう一度勉強し直して、 バイオリン科に籍を置きました。

そのような訳でしたので、バイオリンを持つと体の無意識の中に強い防衛反応が あったのでしょうね。楽器にスッと馴染まないのです。特に首筋を固くするので、耳の神経も解放されません。心を重くしているのものだ から音程のとり方も低目になるのです。

やる気のない行動は遅めになったり、適確さを欠いたりするものです。 私のバイオリン演奏の根底には子供時代の拒否反応が潜んでいる、と気付いたのです。
原因が解明できれば道は開かれてきます。

鏡を四方に置いて演奏の姿勢を細かくチェックし、体をやわらかくして一音一音を心の底に染み通る感覚の練習を始めまし た。そして卒業演奏の曲目には、演奏したくてウズウズしていたブラームスのバイ オリン・ソナタ二番を選びました。

体も心も素直に音楽に集中できるようになって、やっと私は幸福感に浸りながら バイオリン演奏に熱中するようになりました。ボディートークの自由表現法の始まりです。もちろん、四分の一音の狂いも自然に消えていきました。

心に抵抗のあることは、行動の端々に表現のひずみとなって表れます。だから自 然で、素直で、豊かな表現をするためには、まず心や体をスッキリさせておく必要があります。

そのためにボディートークでは表現の前に『心身一如の体ほぐし』を して、日常に溜め込んだ毒を抜くことにしています。




天使の声が聞こえる

無音の中でも鼓膜は振動

パリの教会で「ハレルヤ・コーラス」を聴きました。 ヘンデルが作曲した混声合唱の世界的名曲のひとつ です。音楽好きの叔母に連れられてコンサート会場で初めて、この曲を聴いたのは、小学校の低学年の頃 だったでしょうか。コーラスが始まると聴衆がどんどん立つので、何事だろう、と子供心に深く思ったのを覚えています。

この習慣は、時の国王ジョージII 世が、ハレルヤ・コーラスのあまりの荘厳さに感動をして、立ったまま聴いたことに由来しています。 私が中学生の頃、聖歌隊でこの曲をよく歌ったのですが、やはりほとんどの人が立って聴きました。

中には権威に反発をして立たない人もいましたが、私も聴くときにはどちらかというと立たない方 だったですね。最近では、この習慣も随分薄れてきていて、パリでも立つ人は会場の半分以下で した。

「ハレルヤ」とは神を賛美する言葉です。この言葉を中心にコーラスは歓喜へと高まって行きます。 そして最高潮に達したとき、突然、コーラスもオーケストラもパタッと鳴り止むのです。音楽の用語では G.P.(ジェネラル・パウゼ)と言います。
その直前までは何度も何度も「ハレルヤ」と連呼しますから、歌う側としてハ レルヤの数を数え損ねると大変です。皆んなが一瞬にしてシーンとなるところへ、 間の抜けた声で「ハレ…」と声が出てしまうと、背中にザーッと冷や汗が流れま す。私も一度、この恐怖を味わったことがあります。

そもそもヘンデルは何を意図して、こんなところに G.P.を持ってきたのでしょ うか。私にとっては子供の頃からの謎でしたし、また指揮者たちも合唱仲間も、 誰ひとりとして、この謎を解明してはくれませんでした。

でもパリの教会で聴いて、ハタとその音楽的意味に思い当たりました。

御存知のように、ヨーロッパの伝統的な石造りの教会は異常に天井が高いのです。 中に入って見上げてみると、先端がとがっていくので、気の遠くなる高さに思えます。キリスト教では神様は天上にいると考えましたから、このような効果を強調したのでしょうが、人間の存在が地上に這いつくばって小さく感じられます。

このような教会でポンと手を打ちますと、残響が大きく、また幾重にもエコーがか かります。
ヘンデルはこの残響現象に着目したのだと思います。即ち、地上で「ハレルヤ」 と高く神を賛美し、G.P.で地上の音をバタッと止めると、その声は教会の上へ次 々と舞い上がって行きます。そして最後に、天井の最も高いところから秘そかに「ハ レルヤ」と天使の声が響きます。

パリの教会では、私の耳には本当にそのように聴こえたのです。だからオーケス トラの人もコーラスの人も会場の聴衆も、耳を澄まして天使の歌声を聞く瞬間が、G.P.の素晴らしい表現だと思います。そして、その至福の声を聞き届けた時、地上では感極まって「ハ・レ・ル・ヤー!」の大合唱で終わるのです。

もうひとつ大事なことは耳の鼓膜はいつも微妙に振動 しているということです。聞こえるか否かの小さな音でも鼓膜を共振させることで増幅し、音を大きくして聞くことができるためだと思えます。

また反対に聞きたくない音や、嫌な人の声の振動を、それとは逆方向に鼓膜を
振動させることで、音量を弱めることもできるのです。 年寄りが自分に都合の悪いことは聞こえなくて、家族がヒソヒソ話をするとしっか り聞いている、といういわゆる地獄耳は、このような鼓膜の働きからくるのでしょう。

バイオリンの演奏などで、静かに弓を奏き終わっているのに、聴いている人の耳 には音が響いているという経験はありませんか。これは幻聴ではなく、実際に鼓膜が振動しているのです。そして、このような振動は自ら作り出すことですから、得も云われぬ美しさとなるのです。

ヘンデルはこのような耳の働きは知らなかったでしょうが、人間の音楽的行為を 一斉にストップさせて天上の声を聴く、というアイデアはさすが天才の為せる業で すし、またハレルヤ・コーラスの中で、このG.P.こそが核であると、私は思ってい ます。