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優しくしてもらうと優しくなれる

|ボディートーク自由表現法

生命が弾む

毎年恒例のクリスマス公演「星の王子さま」でチビッ子ぎつねを演じたのは4才になるカナエちゃんです。いつも瞳をキラキラと輝かせてすばしっこく走り回るのでみんなの人気者。なかなか勝気な女の子です。

ミュージカルでは舞台いっぱいに拡がった大きな網に、 一人で捕まえられてしまう役ですが、練習ではいつも遊びまわっていて、肝心な時には練習室にも姿がなくて、他の子が代役をしているという状態でした。ただし代役が演じているのをひそかにどこがで見ているのでしょうね、本番 だけはしっかりと自分で演じました。

そんなカナエちゃんですが、幼稚園ではみんなの面倒をよくみるそうです。 4才になった子供たちは年中組に昇格しますが、新しく3才の幼児たちが年少組として入園してきます。そうすると年中組は競って年少さんのお世話をします。

でも、すぐに飽きてしまいます。しかしカナエちゃんだけは ずっと年少さんのお世話を続けているそうです。
ある時、幼稚園の先生がお母様にたずねました。「一人っ子のカナエちゃんがここまで小さい子の面倒を見るのは、どこがで大きい人たちにすっごく可愛がってもらっているのではないですか?」

お母さんは即座に「子供ミュージカルに通っています。」と、練習の様子を話したそうです。「充分にやさしくしてもらってると、自分も他人にやさしくなれるんですね、」というのがお母様の感謝の弁です。

表現にも同じことが言えます。自然で暖かい味のある声や表現が囲りにいっぱいあると、自分自身も自然に穏やかに出しやすくなります。一日中怒鳴られっぱなしの子供はどうしても息を詰めて固い表情になりますし、表現をさせても攻撃的で囲りをイライラさせます。

イジメの問題もそういうところから発生するのでしょう。家でも学校でも冷たい息で押さえ込まれている子供は、どこかで発散しないと自分自身の心や体を保てないものだから、まず自分に受けた毒をぶつけやすい相手に向けるのでしょう。その相手という のが大人に従順なオリコウちゃんであったり、攻撃してこないおとなしい子であったりするのです。

そういう意味もあってボディートークでは表現の前に体ほぐしをします。まず自分の 中に潜んでいる毒の息を抜き、しこりやゆがみを取り去ってスッキリしておくことが前提です。その上で思う存分、自分自身をさらけ出すことにしています。そうすると弾む生命の、自然で豊かな自分を表現するようになります。

自然表現法、
「スカーフ」―― 流れに身を委ねる

絹のスカーフは手にしてもほとんど重みを感じません、また柔らかく首を包みこんでくれます。そんなスカーフを頭上に持ち上げてフワッ~と広げ、ゆらめくように色々なうねりを見せながら舞い降りていきます。

この美しく流れるゆらめきのイメージを自分の体で表現してみましょう。飛び上がっ た時の体の揺れに素直に身を委ねユラユラと床に流れ込み、体の端まで充分に降ろして、最後はゆったりと寝てしまいます。

・イメージを体で作れない人は実際にスカーフを放りなげて遊んで見るのもいいでしょう。

また、体でイメー ジを作るにはちょっと軽く何度も跳びはねて、その勢いの中で両手を横に上げてみて下 さい。やがて重さを感じさせない動きが生まれるでしょう。

よろこびの気持ちをふくらませていると、本当によろこびがやってくるように、「スカーフ」の動きを楽しんでいると、しなやかで軽やかな身のこなしが自然に自分の日常 の動きとなり、例え外で転んでもフワッと柔らかく着地するでしょう。




然り気なくってステキだね

増田先生の夢のバイオリンが始りました。生まれて初めてバ イオリンを手にした時の感動は、今でも鮮明に体に残っています。どんな人でもやさしく美しい音色が弾けるこの手法には、いくつものボディートークの知恵が隠されているのです。

弓を持つ人の手に、然り気なく添えられた増田先生の手。そのやわらかさと暖かい息によって心と体が魔法にかかったようにふんわりとなり、優しい音色となるのです。

傍にいるその存在さえも感じさせないほどの然り気ない寄り添い方は、絶妙です。ボディートークの《ツインボイス》と同じ原理です。歌っている人、演技している人など、本人が気付かない間に、そっとその人の内に入ってきて内を膨らませてくれる《その然り気ない支え方》は、ボディートークならではのものでしょう。

子育ての中でも、この原理はいろんな場面で役立ちます。マタニティ・子育ての教室に参加した、1才のK君は、自分の胸くらいの高さのガラスのつぼに、小さなカラフルなゴムボールを投げ入れる遊びに夢中になりました。ちょうど手の届く高さにあった 20 個ぐらいのボールを次々に投げ入れ ていきます。もう数個で無くなりそうになった時、私は然り気なくボールをその手の届く所に置きました。

K君はそんなことは気付かず、せっせとボールを投げ続けます。この時期の子どもが興味あることに集中すると、そのエネルギーは大人とは比べ物にならないほど大きいものです。

なぜなら、新しい神経回路は同じ動作を何度も繰り返し成功することによって、強いニューロンとなって結びつき、学習効果となっていくのですから。日々成長していく子どもにとっては、その集中は必然で、一つ一つの成功は全身の快感となっているのです。

それでも、もうボールが手元から無くなりかけてきたので、傍にいた指導者がボ ールを拾ってきて、「ハイ、どうぞ!」と声をかけて渡そうとしました。す るとK君は、その声にびっくりして体を固めてしまって動かなくなり、もうそれからはボール投げはやめてしまったのです。

K君の神経回路が、突然かけられた声に反応して、ボールを投げる動きをストップさせてしまったのです。ほんのちょとしたことでしたが、《然り気なく》の大切さを教えられたエピソードでした。

舞台作品に『月夜におどろう』という踊りを、毎年、私は幼い子ども達のために プログラムに入れています。まだ歩くのもやっと、という赤ちゃんもウサギのお耳をつけると、喜んでピョンピョン元気よく跳ねてくれます。

一応振り付けはあるの ですが、「1,2,3,4」と号令をかけて踊りを強制すると、幼い子ども達は動けなくなります。お地蔵様やお兄ちゃん、お姉ちゃんウサギの中に混って、自分もピョンピョン跳ねるウサギになっているのです。

大勢の中で踊っても、周囲の子ども達同士も、決して幼い子とぶつかりもせず、 自由に踊りながら、その中で《然り気なく》お互いを包み合い、支え合う感性を本能的に膨らませていくのだと思います。

踊りの情景となるお地蔵様にお供えさ れた月見だんごや、飾られたススキや野の草花も、然り気なく子ども達を包んでいてくれます。こんな然り気ない、自然や人の暖かさに包まれ、喜び弾む子どもの姿 は、キラキラと輝き、観る人の気持ちをほのぼのとしてくれました。




心も体も丸ごとで味わう

本物は体が納得する

私の子供時代にどうしても腑に落ちない歌が2つあっ た。一つは小倉百人一首の持統天皇の和歌である。

  春過ぎて  夏来にけらし  

   白妙の 衣干すてふ   天の香具山

問題はこの歌の解釈である。国語の先生によると、 意は「いつまでも春だと思っていたのに気がつくと夏が来たんだなあ。香具山のふもとに人々が夏服の白い衣を干しているよ」というふうになる。どの参考書もこれと似たりよったりの ことが述べられていた。

しかし、この解釈が私 にはピンと来ない。一体どこに歌としての面白さがあるのか。名歌だと先生は言うけれど、どこがいいのか。 詩的な表現のきらめきが全く感じられない。

疑問が解けぬまま受験時代が過ぎ、教師となってし ばらくしてテレビのドキュメントに一人の老人のことが取り上げられた。この人は 壬申の乱を実際に自分が歩いて確かめようとしていたのだが、彼の説によると天の香具山は現在の奈良の香具山ではなく、白山のことではないか、というのである。

白山だとすると、歌の解釈はガラリと変わる。即ち、この山の頂上は富士山のよ うに夏以外は年中雪をかぶっている。大意はこのようになる。「いつものように白山をながめてみると、アレ? 今日は頂に雪がない。ああ、いつの間にか春が過ぎて夏になったんだなあ。白山が雪の白い衣をどこかへ干しに行ったよ」

目の覚める思いだった。頂の雪が消えるのを、山が白い衣を干しに行ったとイ メージした感性は、現代にもそのまま通用するモダンでスマートな表現だし、それで夏の到来を知るという新鮮な驚きは、一字一句無駄のないこの歌に躍動している。 見事な作品だと私は脱帽の思いであった。

芸術作品は、心と体と頭がひとつになって味わえるものだと私は考えている。頭では理解でき、感心したとしても心や体が喜んでいないというのでは、芸術的価値の低 い作品だと思う。

腑に落ちるというのは、体のレベルで納得したということである。心うたれるという感動は、心の奥底から感情を揺すぶられるということである。私は「春過ぎて・ ・・』の歌をいっぺんに好きになってしまった。

子供時代に腑に落ちなかった、もうひとつの歌は「夏の思い出」である。「夏が 来れば思い出す・・・」という、誰もが口ずさむ日本の代表的な歌である。この歌は体のレベルで受け付けなかった。

何がそうさせたのか? テンポである。作曲者の速度指定は「ゆっくりと」である。しかし女性合唱などで「夏が来れば思い出 すと歌い出す、ほぼこのあたりで子供の私はもう退屈し始め、言いしれぬ気だるさを覚えていた。

歌詞は「はるかな尾瀬遠い空」と続く。頭の理解から進めよう。「思い出す」
のは「尾瀬」である。するとこのフレーズは「尾瀬」という歌詞に向かって息を高めていかねばなら ない。ところがゆっくりと歌い出すと、「尾瀬」に来るまでに「思い出す」で息が落ちてしまうのであ る。そうすると何を思い出すのかがわからないので 何とも間の抜けた言葉となってしまうのである。

解決方法は如何に? 2つある。ひとつはよほどの長い息と精神的緊張を持って「尾瀬」をエネルギーの頂点にすることである。もうひとつは軽い息であっさりと速い目に歌い出すことである。そして頂点の「尾瀬」でゆったりとテ ンポを落とせばいい。

私は後者の表現法を勧める。何故ならこの歌は大きな息の表現をすると、内容と 合わなくなるからである。ふと足下に目をうつすと水バショウの花が可憐に咲いていて、思わずうっとりと夢みるという愛らしい優美な歌である。

だから「水バショウの花が咲いている」というところは秘やかな息で自分に向かってささやくように 歌うのである。決して大きく歌って他人に水バショウを見においでと誘うところではない。

私のいうように少し速い目に歌い始めると、曲想がスーッと自然に湧いてきて、 この名歌を納得できるだろうと思う。是非皆さんも、この場でそっと口ずさんでい ただきたい。




自然で素直な声

全身を柔らかくして発声を

テレビの声は固い

テレビをつけっ放しにして他の事などをしていると、 妙にソワソワとして腰が落ちつかない。ハッと気がつい てテレビを消すとホッと息が降りるのを感じる。そんな経験を誰しも持っているだろう。

アナウンサーやタレントなどが、とりとめもなくおしゃ べりをしたり笑ったりする声はアッピールが強いのだ。 そのアッピールは積極的な息の押し出しとテンポの.. 語り口、そして声質の高さや固さからくる。その声はテ レビのスタジオでは似つかわしいのかもしれないが、少 なくとも日常の家の空気 には馴染まないから落ち着かないのだ。

一般にはアナウンサーの声は良い声だと思われ ているので、その声は固い、と私が言うと、アレッ?と思う人もあるだろう。しかしボディートークの見地からすると確かに彼らの声は固く感じられる。彼らの発声練習が固い声を作っているからだ。

アナウンサーの発声練習は演劇の方法と同じである。演劇はもともとマイクなし で多くの観客に聞こえるようにセリフをしゃべらなければならなかったので、 共鳴を多くして強い響きを必要とした。

それで息を口内へ強く送りこむために腹式 呼吸を多く使い、横隔膜をしっかりと動かそうと考えて腹筋を鍛える方向へと進ん でいった。「アエイウエオ・アオ、 カケキクケコ・カコ・・・」というような言葉を、大声で一語はっきりとて、しかもその毎に腹筋を使って強く素早くおな かをへこめる、という練習がその代表的なものである。

だいたい「ア・エ・イ・オ・ウ」という順番からして言葉に対する捉え方が狭いと私は思う。本来は「アイウエオ」という順番が自然なのである。これは全身を柔らかくして一語づつ長くのばしてみるとよくわかる。

即ち「アー! は体の上方に響くのだ。それに対して「オー」は下方に響く。「アイウエオ」は全身の上方から下方へ響きが移っていく順番なのだ。

「アエイオウ」は口の開き方の順番である。「ア」が大きく「工」は少しせばめ て横に開き、それを更に狭めると「イ」になる。唇を寄せて口の開きを小さくすれば「オ」になり、一番口をすぼませれば「ウ」になるという具合である。

私は「声の文化」として、その声が私たちの心を穏やかにし、体を楽にさせ、ま わりの犬や猫も含めて社会を平和にさせるものを探究したい。そのためには腹式呼吸にこだわることなく、全身を素直に豊かに使った全身呼吸や日本語として自然に響く声のための発声プログラムを開発し、提案していこうと思う。

発声練習その1

「まいまい」 ―柔らかい声で話すためには 下の詩の「まいまい」はカタツムリのことです。語呂合わせみたいで調子がいいですが、一字一句ていねいに読んでいきますと、ちゃんと意味が理解できます。一

1行目は「カタツムリは舞いを舞わないだろう」ということです。あとはこうなります。「カタツムリの上手な舞いをもう舞わないだろう。カタツムリは目まいの病気なので、カタツムリへの毎度毎度のお見舞いをかかさないでおこう」

発音練習としてはまず普通に「まいまい」と言っ てください。特別に口を大きく開いたり、構えたり する必要はありません。日本語として当たり前に「まいまい」と聞こえればいいのです。 欧米の言葉はノドの奥深くから押し出すようにして発音しますが、日本語は息を スッと口内に運んで、口の前方で言葉を作ります。

従って子音の「M」も母音の 「A」も軽く発音して下さい。
「まいまい」の詩はなめらかに続くように練習して下さい。電話がかかってきた 時もこの詩を言ってから受話器を取るといいでしょう。

まいまいは

まいまうまい

まいまいの うまいまい

もうまうまい

まいまいは めまいのやまい

まいまいの まいまいみまい

かかすまい

谷川俊太郎「ことばあそびうた」より




生きる力を育てるチャンス

● トマト美味しいね

今日は、トマト嫌いな子が好きになるというお話から始めましょう。かつ て私が勤務していた短大で保育学科を増設し、そこに音楽コース・英語コース・園芸コースを開設することになりました。

学長とともに出かけた文部科学省に、新設のための説明会で、「何故、園芸コースを置くのですか?」と質問さ れました。私は「子どもが土に触れ、植物を育てていく中で≪生命の在り方≫を喜びや感動とともに自然と学んでいけるから」でした。

園芸コースに入学した学生達は、まず土作りを教わり、トマトの苗を植え、
トマトの成長を待ちました。そして太陽の光をいっぱい浴びて真っ赤に熟したトマトを口にした学生達は、「あ~、美味しい。こんな美味しいトマト食べたことない!」と、皆飛び上がるように感動し喜びあっていたのです。

きっと生まれて初めて自分で作ったトマトの味は、格別だったのでしょうね。
やがて、その学生達が就職した保育園では園児達が、彼女らが学生時代にそうであったように大切にトマトを育て、それを給食で食べているそうです。

するとトマト嫌いだった子も、トマト大好きな子に変身していくという、嬉しい 報告が入り始めたのです。子ども達は毎朝、園に来ると、一目散に走っていくのが自分の植えたトマトのところ。毎日毎日、「早く大きくならないかな~。実がつかないかな~」と、楽しみながらお世話をしていくのです。

● 木を見つめる心

≪自分が時間をかけ心を込め関わっていくと、関わったものが恋しく、大切なものとなっていく≫手間暇かけ、気長に見守り続けることを、日本語では 『想い』という言葉で表わしているそうですが・・・(木が大きくなるには随分と長い年月がかかります。年輪がいくつも刻み込まれて木の成長を見守り続ける。心をいれると『想』という字になりますね)

自分の体を通しての想いが加わると、嫌いなトマトが大好きなトマトになって いくという体験をした子ども達は心にとって大切なもの。トマトと一緒に自分を育てていたのですね。

● オッパイ探せたよ!!

トマト作りのように、人間は自分の食べ物を栽培した り養殖したりする知恵を持っていますが、野生の動物達はエサは自分で動き探 し回って、ようやく得ることができるのです。ですから動けなくなることはエサを探すことが出来なくなることであり、すぐさま死と直結していきます。

動物も人間の赤ちゃんも、生まれるとすぐに自分で動いて、自分が生きていく食べ 物であるお母さんのオッパイを探そうとします。自ら(ミズカラ)エサを探す、これは動物の本能であり、生きていく力のベースです。でもたいていのお母さんは、抱っこしている赤ちゃんの口の中に、お母さんが乳首を持っていらっしゃいます。

赤ちゃんが早くオッパイを飲めるように、準備してあげるのもいいかも知れませんが・・・。実は授乳の時、ちょっとした工夫 で赤ちゃんの自分で生きていこうとする力がグーンと育っていくのです。

≪生きていく力をアップする授乳方≫

少しだけオッパイを赤ちゃんの口元から離して置きます。そして赤ちゃんが手を伸ばしたり、顔を動かしながら、自分でお母さんの乳首に吸い付いていくようにしてあげるのです。赤ちゃんが「ヤッタ! 自分でオッパイを探し当てたぞ!」と喜ぶチャンスを作ってあげるのです。

1 お腹を空かせて赤ちゃんが泣き始めます。

2 お母さんは、「エライネ~お腹空いたって言えたネェ~」と一回ごとに一 一緒に喜んであげます。

3 オッパイを口元の傍のところへ持っていきます。

4 赤ちゃんがオッパイを探し当て、自分で口に含み飲み始めます。

5 そこで「スゴイネェ!! よく自分で探せたネェ、エライネェ~!」と一回
ごとに一緒に喜んであげます。 その度に赤ちゃんは、自分で望むものを自分の努力で得られた充実感に満たされていくのです。こうやって幾度となく繰り返される毎日のこの行為の中から自ら生きていく力が育ち、親子の絆も強くなっていくのです。




自然な姿勢から、魅力ある声を

人はみな個性的な存在である。そして本来の自分の在り方をしっかりと実現している人は個性的であり、そのことに魅力がある。その意味で個性を磨くとは本来の 自分をよりよく発揮するということである。
個性とは似ても似つかぬものなのに、意外に個性と錯覚されがちなのがクセである。クセとは自分でないものをくっつけて、本来の自分の姿を歪ませているもである。

チック症状的な動作や貧乏ゆすりなどなら誰しもがクセと考え、あまり良い感情を抱かないが、 例えば反対意見を言ってからでなければ行動に移れない人や口をへの字に結んで黙々と仕事をし続ける人、または奇抜な格好をする人などをもって個性的と評価することがある。

しかし体ほぐしをしながらその 人の本来の姿をさぐっていくと、「ああ、これは自分に合わない環境から身を守るためのひとつの手段にすぎないのであって、この人独自の魅力ではないのだ」とわ かることも多い。

クセとは例えて言うと、床柱として使われている四角い竹である。タケノコは本 来丸いものである。そのタケノコに四方から板をくくりつけて四角く成長させるのである。全国一のタケノコ産地である長岡京近くに住んでいたことがあるので、四角い竹づくりをよく目にしたが、竹が伸びる毎に板をとりかえて、結構めんどうな作業を重ねている。だから床の間に柱として出来上がったものは相当な値がするらしい が、私の目からすればイビツで窮屈なものとしか見えない。

ずいぶん前、TVの人気司会者であった逸見さんがガンで亡くなったのも、本来の自分から遠く離れた仕事内容が原因だと思われる。彼はもともと内息の強い人であり、大真面目な人である。人柄の良さで人気者となったのだが、自ら人を笑わせるタイプではなかった。なのにお笑いタレントのようなキャラク ターを要求され続けて、イライラとクヨクヨをつのらせて遂にガンを患い還らぬ人 となってしまった。

歌の発声についても訓練しているつもりが、実はセッセとクセを身につけていた、 というようなことが多い。音楽大学などで「おなかを引き締めて! 胸を高く!」 と教えられた人がほとんどではないだろうか。明治の文明開化で西洋音楽をあわてて取り込もうとしたせいである。

イタリアへ歌の勉強をしに行った日本人にとってオペラの声は驚異であっだろうし、憧れの世界でもあっただろう。何がなんでもイタリア人のように歌い たいと、必死にマネをした結果が胸を張ることであったし、お尻を突き出すことであった。

しかし、イタリア人はそんな姿勢で歌ってはいない。自然に立っているだけである。ただ体型として胸が厚く、あるいは大きく、お尻も元々デカくてドッシリと構えているように見えるだけである。

日本人は日本人の自然な姿勢で、うちからの発声を出発点とするべきである。その中からイタリア人 には真似のできない日本人の魅力的な発声が生まれるのである。イタリアのオペラをイタリア人のように歌うのではなく、日本人の声でオペラの本質を表現すればいいのである。

個性とは本来の自分を発揮することである。バラがバラであり、ヒマワリがヒマ フリーであることである。個性の種は既に自分の中にある。個性は外から学ぶもので (いない。ひたすらクセを取り除き、自分の内から表現をどんどん引き出すことで、花も開くのである。

シリーズとして、ボディートー クの自由表現法のプログラムを紹介してい こうと思うと共に実践することで自然で豊かな個性を発揮していってほしい。




やわらかな足音は一生の宝

足音だけであなたが分かる

足音だけで あなたが分か〜る ♪

    目を閉じてても あなたが分か〜る ♪

ずいぶん古い歌ですが、まさにその通りです。履物を換えると、その音は当然変わりますが、ちょっと自分の足音に耳を傾けることを心掛けていくと、そ の日の心や体の在り方が感じられるようになっていきます。

● 足音をたてたら罰金

私はバレエを長い間教えてきました。レッスン場で小さい子ども達がドタ ドタと足音をたてると、すぐに「ハイ!罰金!」ニコニコしながら言うこと にしています。すると子ども達は、「あっ、そうたった」と、直ちに足音をたてずに動き出します。
《何故、そうするのか?それはただ踊ることだけでなく、《体を大切にする動きを身につけていくこと≫がレッスンの目的だからです。

● 体の在り方が足音に表れる

外出の時には、たいていハイヒール しか履かない私ですが、疲れている時は自分の足音は雑音に近いものになっ ていて、その音が耳に響くことによっ て余計に疲れていることに気づくこと があります。

そんな時は「ゴメン、ゴ メンネ」と足に言いながら、歩き方を ゆっくり、ふんわりとするよう心掛 けています。
街角でも「何!このダラシない音は?」と振り返ると、目の覚めるようなステキなファッションのスタイルの良い若いお嬢さん。でも足音から判断すると、 「あー、この人は腰がズレているな。心も少し精神不安定気味。結婚しても、きっと家は散らかし放題だろうな?」と、思ってしまいます。

忍者学校入学許可。 子育て・マタニティ講座の中でも、この足音のブログラムは、《自分の生命を大切にする感性をはぐくむ≫方法のひとつとして、必ず伝えるようにしています。

例えばこのようにして進めていきます.(S-城石・C=子ども達)
S  みんな、忍者知ってる?
C  知ってるよ

S  忍者ってね、目に見えない位超スピードで走るし、足音も 聞こえないんだよ。できるかな?
C  できるよ!

S  それに人や壁とも絶対にぶつからないんだよ
C  うん

S  じゃあ、やってみる?」
いい?いくよ~ ヨーイ、スタート!
子ども達、つま先立ち で体を少し内へ構えるよ うにして足早に走り回る
S  ウワァー! すご~い!

子ども達は走る

今度はすぐにストップ

その場にストップ できる? 動いちゃダメだよ。

イクヨー

ストップ!

S  じゃあ次は、溶けて消えてみよう

イクヨー   ホーラ    トロトロトロ~ッ

子ども達は、頭の方からソフトクリームが溶けるよ うに、音も立てず、床に倒
れていく
S すご~い !! すごいよ、みんなやれたね。 ヨシ!忍者学校入学許可だね !

沖縄での子育て・マタニティ講座でも、4~5人の男の子達が 大人のセミナーをやっている会場の間を《忍者走り》で走り回ったり、倒れ込んだりと、全身汗でびっしょりになりながら、大喜びで1時間近くを仲良く遊び回っていました。けれど、さすがお見事。忍者達、全く音もせず、何の邪魔にもなりませんでした。

● 柔らかい足は一生の友として

この忍者のように走るには、全身のしなやかな筋肉が必要です。また、足の母指球を中心として、五本の足指の関節の可動性がでなければいけません。 日頃、よく動いている子ども達は簡単にホイッと忍者になれますが、クツを長く履き続けてきた大人の足指関節は、可動性が狭くなり、筋肉も固くなってい ます。

昔は畳で座ったり立ったりの所作でしたが、椅子の生活が増え足指の 動きは悪くなっているのです。クツは進化しましたが、足は退化していっているのです。

大人もそうですが、特に子どもには出来るだけ五本の足の指がシッカリ動く生活を確保 してあげることは、脳の発達にも、とても大切なことなのです。

最近、幼い子の足を触ると「エーッ、信じられない!こんなに硬い足になっている」と 嘆くことが多くなりました。直接な理由でな いにしても、畳ががある家が少なくなり、絨毯の上で立ったり歩いたりしていることも関係しているような気もするのですが・・・・。

ご存知のように、足の筋肉が固くなると、心臓の血液量が減少します。脳へ の血流も滞ることにもつながっていきます。ネコのようにはいかずとも、日頃の足音を穏やかにやわらかい足音をちょっと心掛けるだけでも足の負担が変 わっていきます。

ボディートーークの足ほぐしもマメにしていただき、どうぞご 自分の足を大切になさって下さい。自分の人生の最後の日まで、自分の足で立ち、 自分の足で歩けるなんて、なんと幸せな事でしょう。

未来をになう子ども達も、やわらかい足音を一生の友として、歩き続けていって欲しいですね。




伝えよう、生命を守る知恵

♪ 水はつかめません。 水はすくうのです

指をぴったりつけてそっと大切に ♪

これは以前にもご紹介したことのある、『水のこころ』という歌ですが、熊本地震が起こったとき、熊本や大分の会員の皆様の心の痛みを少しでもこの両手にそっとすくい、あ たためてあげられたらと、そんな思いでこの歌を歌わせていただいています。

偶然の一致とも言えるように、ちょうど会報で『カメさんは怖い時どうしてる?』の原稿を書き上げ、ペンを置いた瞬間、突然、携帯電話の音が鳴り響き、グラグラッ〜。 福岡に私はいましたが、かなりの揺れでした。

● 頭はクルクル、体は石の防弾チョッキ

最初の数秒は何が起こっているのか、???の状態になりましたが、阪神大震災を 大阪の高層ビルで体験したことのある私でしたから、さほどパニックにはならず冷静でした。ところが夜中になっても連続する大きな振動に、これは今までとは違う、次 の事態に備えて何をどうすればよいのか、と準備を始めました。

頭はクルクルと超ス ピードで回転していきました。
90才の母と一緒に、どこへどのように避難するのがベストなのか? 母の薬は? 食料は? 衣服や貴重品は? 全速力で24時間openのマーケットに駆け込み、頭もクルクル超スピードで回転しながら一晩を過ごしました。(幸い福岡は次の日はそれ ほど強い揺れはなく、避難所も解除されました)

大きな揺れが来た時は、安全な場所を探し、うずくまりました。「ウァ~!!」と、言いながら積極的に体を揺すると、 体が固くなりにくいと感じ、その動きを繰り返していました。しかし、そうしたにもかかわらず、数日後に母に体ほぐしをしてもらうと、今までに体験したことのないほど体全体を固めていました。

地震の翌日から何人ものプライ ベート・レッスンをしましたが、やはりどの人の体も普通の生活でのレベルと異なっ た石のような固さでした。本人はそう感じていなくても、地震が続くと生命を守るた めに作る体の防弾チョッキはこんなにも固くなるのだと感心するばかりでした。

● 生命の危機から自分を守るためにかけた体のカギ・心のカギ

私は今回の地震で、心を通して体をほぐすボディートークの体ほぐしのすごさを、 我が身を通してより深く、また新鮮に体験することができました。それは、

(1)体のしこり・心のしこり(体のカギ・心のカギ)は、自分の生命を
守るためにかけるものであること

(2)カギを開くには、自分の内から開けたいというエネルギーが湧き起
こらなければ開きにくい

(3) 自分の力ではカギが開きにくい時、そこに外からのあたたかい息と手のぬくもり、そしてカギをかけた時の心の状態を表す明解な、しかも共感レベルでの言葉が必要である。ということでした。

また、2のステップになると、私はガタガタと体が震え始め、どんなに熱いオフロや熱いシャワーを浴びても寒さが続き、その後に急に高熱が出始め、そうなると涙が次から次へと流れ出し、「怖かった」とか「助けて欲しかった」との言葉も出しなが らカギを開けようとしていきました。

● フラッシュバックして大掃除

そしてもう一つの新しい貴重な体験をもすることができました。地震のことでかけたカギだけではなく、心の奥の奥に押し込めていた、もう自分ではほとんど忘れてい た幼い頃の心のカギまでが開き出し、一緒に揺れ動き、出ていったのです。

内なるエ ネルギーが火山のマグマのように噴き出してくると、フラッシュバックが起こり、「怖かった」「助けて欲しかった」「傍にいて欲しかった」などと言葉に出しながら、一気に心の大掃除をしていったのです。まだ他にも発見がありましたが、 それはまたの機会にお話しすることにいたしましょう。

● あたたかい息と手のぬくもりで生命を守るボディートークを届けよう

TVでエコノミー症候群 やメタボリックシンドロームにならないようにと紹介されている映像を見た時、皆さんはどう感じられましたか? 「ゴキブリ体操 は声を出してやって欲しい」とか「足をほぐすには、温泉たまごをお互いにやってみて欲しい」と思わず言いたくなりませんでしたか?

今、私はこれから全国どこにでも起こりうる災害のために、子どもも大人も誰も がやれる、もっと効率の高い即効性のある、より役に立つ心ほぐし・体ほぐしを 工夫し、伝えていけたらと願っています。 すでに、もういくつかの新しいほぐし方も考え、セミナーやプライベート・レッ スンで実習していただいています。

これからも、あたたかい息と手のぬくもりを添えて“ボディートークの生命を守る知恵”がより多くの方へ届いていきますよう、努力していきたいと思っています。




パンダのお母さんから学びましょう

赤ちゃんを抱く手

ボディートーク・マタニティのメインプログラムのひとつに『赤ちゃんを抱く手』があります。この手になるには、次の5つの要素を練習していきます。それは、

1 あたたかい手

2 やわらかな手

3 繊細な手

4 包む手

5 溶ける手

そし て、この5つの要素が総合的に関わり合いながら高まっていくと、羊水感覚の環境をたっぷりと赤ちゃんに提供できるようになるのです。

そしてこの『赤ちゃんを抱く手』は、赤ちゃんのためだけのものでなく、繊細なレベルで自分で自分の心と体をほぐす《一人体ほぐし》や《二人体ほぐし》にも大いに役立つものです。

残念ながら『この手』のレッスンは、紙上ではご説明できませんが、機会があり ましたら、是非一度、ボディートークマタニティ指導者から直接受けてみられることをお勧めします。

今日は、問答法でそのご紹介をしましょう。
初めてお会いする赤ちゃん連れのお母さんと「ボディートーク・マタニティ子育 て教室」で毎回のように交わす会話です。(S…城石、M…お母さん)

S. 「アレッ?赤ちゃんの足、硬いですね」

M. 「エッ?そうですか?こんなものだと思っていましたが…」

S. 「赤ちゃんの体って、もっともっと、つきたてのお餅のようにやわらかいん
ですよ」

―しばらく私が赤ちゃんをほぐした後で、もう一度、お母さんに赤ちゃんに触ってもらう。

M. 「あーほんと、やわらかくなりましたね」

S. 「赤ちゃんには、こんな風に触れてあげて下さいね」

―私がお母さんの体に『赤ちゃんを抱く手』でタッチしてあげる。

M. 「エッ!こんなにやわらかくですか? まるで空気で触れているようですね」

S. 「今までのお母さんのタッチは、たぶん赤ちゃんにとってこのような感じに
伝わっていたと思いますよ」

―おかあさんの従来のタッチの仕方を真似て、私がお母さんの体に触れてみる。

M. 「わぁ~、ずいぶん強すぎる感じですよね」

S. 「そうですよ。ご自分の舌に触ってみて下さい。 やわらかで、あったかいで
しょ?」

―お母さん、自分の舌に触ってみる。

M. 「そうですね。やわらかくて、あったかいですね」

S.「そう。その舌でソッと触れるような感じくらいで、充分なんですよ。では、
赤ちゃんがどう反応するか、この 2 つの方法を比べてみましょうか?まず、 最初は今までやってきた方法でタッチしてみてくださいね」 お母さん、赤ちゃんへタッチ。

S. 「じゃあ今度は、今練習された、舌でなめるようなイメージを大切にしなが
ら、ソフトであたたかいタッチをやってみて下さい」 お母さん、赤ちゃんへ舌なめの要領でやさしくタッチ。赤ちゃんの顔が、や わらかく、嬉しい表情へと変化していく。

M「ワー、本当に表情が変わっていくんですね。ア〜、私は今までずいぶん荒々しいタッチをしていたんですね…」

こうして、一度ですっかり素敵なママの手になる人もいますが、一度で無理な方も、 二、三度通われて練習されると見違えるようないい手になっていかれます、その手で赤ちゃんの体に触れ、ほぐしていってあげると、赤ちゃんはご機嫌で大喜びです。

動物のパンダの子育ては感動的ですが、100gの超未熟児で生まれた赤ちゃんが 無事育っていく秘密は……出産後3日間、ほとんど食事もとらずにせっせとあたたかく、やさしいお母さんの舌が、赤ちゃんをなめ続けていくからなのだそうです。

なめるという動作によって、赤ちゃんの皮膚の新陳代謝が促進され、なめられ
る刺激で排泄がスムーズになっていくこと。また腸が動くことで、内臓への刺激も加わり、消化吸収もうまくいくようになること。

なめる、なめられるという肉体的な相互関係の中で、心理的な母子の絆が強く結ばれていくこと。パンダ赤ちゃんが啼くとなめ、なめられると落ち着く、という繰り返しの中で、赤ちゃんの中に母親に対する《原信頼》が育っていく。 のだそうです。

人間にとっては、動物の舌と同じ役割が、『赤ちゃんを抱く手』と『赤ちゃんに 語りかける声』なのですよね。人間の赤ちゃんもパンダの赤ちゃんも一緒です。




妻の息が夫に伝わる

息は伝染するも。あくびはその好例

息は伝染する。会議などで一人がアクビをすると、次から次へと伝染して会場に気だるさが漂う。その意味で、息はその場の空気を支配する、とも言える。

狭いエレベーター内ではお互いの息遣いが聞こえる。それで聞こえないようにと息を殺すものだから、窮屈な思いをしてしまう。こういう時は口を少し開くのがコツだ。口を開くと音がしないように息を足下まで落とすことができるから、楽に深い呼吸ができる。

窮屈な息といえば、お葬式もその典型である。悲しみの思いは気道を締めるから参列者の大半は息を詰めている。その中に故人と縁がなく義理で参列している人もいるだろうが、その人も開放された明るい声でしゃべることは憚られる。

全員が 声を潜め、息を詰めることで会場の空気が悲しみ一色に 統一される。
悲しみを更に深めるために、昔は葬儀専門の泣き女と言う風習さえあった。また、飛行機事故で亡くなった歌手の坂本九さんのお葬式では、会場に流れるバイオリンの音が、かすれ気味に震えながら、とぎれとぎれに演奏されているのが印象的であった。共に会場の空気を支配する力を持っている。

そして会場の空気とは、その場にいる人たちの息の仕方に他ならない。従ってお葬式に参列する時は、会場の近くまで行ってから胸を押さえて、数回、息を詰めておくのがコツである。そうすればお悔やみも言い易くなる。

0夫人は四十代後半の上品な奥様である。夫婦間の悩みがあってボディートークの個 人レッスンに来られた。夫は温厚な人柄で会社の管理職でもあり、特に問題がある訳でもない。ところが結婚以来、いまだに打ち溶けて話し合ったことがないのだそうだ。

いつも礼儀正しくよそよそしくて、他人と暮らしているようだ、とおっしゃる。 早速、0夫人にうつ伏せに寝てもらって背中を調べた。すると背中が石のように固い。 特に両肩甲骨の間である肩身をギュッと詰めている。これは切ない思いを溜め込んでいるしこりである。

また、その下の胸椎九番に強いしこりがある。これは憎しみを表す。 しかし他のしこりとの関連から、夫へのではなく、どうやら両親へ向けられた憎しみの感情である、と私は直感した。「ご主人のことより、ご両親のことで憎しみが出ていま すが・・」と説明すると、O夫人は思い詰めたように語り始めた。

両親から、今のご主人との結婚話を勧められた時、彼女には他に意中の人がいたのである。そのことをご両親に打ち明け、辞退したいと懇願したけれど聞き入れられず、無理矢理、結婚させられてしまった。自殺未遂事件まで起こした揚句、夫には決して心を許すまい、と決意して結婚生活に入ったのだそうだ。

結婚以来二十数年、そんなことはすっかり忘れていた、と0夫人は寂しく笑った。と、そのあと肩身をほぐすと、泣きたいと思っていないのに、止めどなく涙が流れ出た。 切なさのしこりや憎しみのしこりは、本人がそのことに気付きながらほぐすと、ようやく柔らかくなるものである。固くしていた神経がほぐれてやっと涙も出るのである。ひとしきり泣いて彼女は帰ったが、その夜、びっくりすることがあったと、次のレッスンの時に報告があった。

夫が口笛を吹いていたというのだ。今まで聞いたこともなかった夫の口笛とリラックスした態度に彼女はびっくりしたのだが、それは彼女の息が緩んだからである。
変わったのは彼女の方の息である。心をほぐし、体 をほぐしてわだかまりを取っていったので、夫を許す息になったのだ。開放された息が夫の無意識の息に伝わり、家庭の空気が和んで、彼の方は思わず口笛が出た、というのが本音だろう。

0夫人から「おかげ様で、電車に乗っても、やっと夫と隣同士座れるようになりました。 これからは少しづつ近づいていけ そうです」という、うれしい便りをもらった。