これまではボディートークの第一分野である自然体運動法について述べてきた。今回からは第二分野である呼吸法・発声法について話を進めようと思う。
息によって声は発せられる。人によって息の仕方は様々であるから、声は個性的である。だから声を聞けば誰がしゃべっているか判断できる。声はその人の骨格や姿勢によっても規定されるし、またその人の育ち方、考え方やその時々の心の状態をも反映しているからだ。
すなわち、心と体の両面を表すのが声である。その意味で声のあり方は生き方と重大な結びつきを持っている。自分自身の息の仕方や声に気づき、そのクセを正し、さらに開発して気力や行動力を身につけるのが、ボディートークの呼吸法・発声法である。
十数年前のことだ。大阪の阪急電車のある駅で痛たましい事故があった。一人の女子高校生が線路に落とし物をしたらしく、自らプラットホームを降り、線路上でウロウロしていた。
電車が近づいてくるのを知って、少女は急いでプラットホームに両肘をついた。懸命に上がろうとしたが、体が持ち上がらない。
翌日の朝日新聞は「現代人はここまで冷たくなったのか」と言う見出しをつけて、トップでこのニュースを報道した。私は新聞でこの事故を知り大きなショックを受けながらも、はたして現代人の心が冷たくなったのかどうか、ふと疑問に思った。
そして、なぜ、まわりの人は少女を救えなかったのか、現代人は他人に無関心といわれるけれど、その奥にあるものは一体、何なのかと考え込んでしまった。
どうしてプラットホームにいた人は走って行って少女を引っ張り上げなかったのか。逆になぜ、少女は一声「助けて!」と叫ばなかったのか。両者は共にしなかったのではなく、できなかったのだと私は思う。
これは私の推論であるが、少女は多分スカートをはいていたのだろう。もしスラックスであれば、プラットホームの高さは高校生にとってたかだか胸あたりだから、なりふり構わずに足を振り上げてなんとか上ってきただろう。ところがあいにくスカートだったためにちょっと行儀よく両肘をついて体を持ち上げようと試みた。
そうしてもがいていれば、きっと誰かが駆け寄って、引っ張ってくれるという思いが心の中にチラッとよぎったかもしれない。でも少女の命の助かる可能性のある貴重な数秒間に助けを求める一声もなく、動作もなく、自力ではい上がろうとしたのだ。
では、少女が危ない!と気づいた人はどうしたのか。その心の動きを考えてみた。少女は自分で上がろうとしている。若い元気な子だから手を貸さなくても大丈夫、と行動を起こさない自分をまず納得させる。次に電車が迫ってくる瞬間には、助けなければ、と思っただろう。
しかしその時、自分が真っ先に手を出さなくても、一番近い人が引っ張りあげるのではないか、と一瞬ためらいがあったのではないか。少女の側もまわりの人の側も、この他に働きかけない消極的な態度、心の固いガードが、とっさの時に必要な体の動き、声掛けを封じ込めたのだと思う。
いざという時にタイミングよく必要な動作が出たり、声が出たりするためには、日頃から身のこなしをよくし、声が楽々と出るようにしておかねばならない。スッと動きや声が出ることをボディートークでは「道がつく」という。体の道、声の道をつけようというわけである。
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