ローランサンの絵に佇む女性
モネの絵は、やわらかな色彩がそこはかとなく漂って、観る人の心を和ませます。 本物を観たくて私は時々パリへ行きますが、 有名な「睡蓮」の大作はセーヌ河のほとり、 オランジュリー美術館の「睡蓮の間」にあります。 別室にはルノアールやゴッホやドラクロアなど、美術の本でよくお目にかかる有名な絵がたくさんあって、時の経つのも忘れる夢の館です。
その中に女流画家マリー・ローランサンの絵がいくつか展示されているコーナーがありました。薄紫色を基調に、 優しいタッチで女性が描かれています。 私は椅子に腰掛けて、 ゆったりと眺めていました。 そこへ、 人目もはばからずにおしゃべりをしながら、 数人のおばさん連れが入って来ました。 大阪弁で、 いかにも買い物を目的にパリにやって来た、という風で全身これブランド品で飾り立てています。
これはヤバイ、と私が腰を浮かせた時、 その中の一人がローランサンの絵の前に立ち、「うわー、 この絵。 私の店にあるのと同じ」とささやきました。 その声は、今までの押し付けがましいガラガラ声から一変して、やわらかく秘密めいて、少女のような恥じらいがありました。 両手を組んで胸に当て、 ローランサンの絵をうっとりと見つめている代表的な大阪のおばさんの姿に、私は思わず魅入りました。
* 本物は人の心を素直にさせる!
この女性も、「心の奥底はナイーブで繊細で穏やかなんだろうなあ。 だけど客商売で毎日、気を張って、体を張って、押しを強くして生きてきたんだろうあ。」 それが思いがけずローランサンの絵に出会って、 しかもお店に飾ってある絵の本物に巡りあったので、一気に 「素の自分」に戻ったんだろうなあ。
そう思って見ている私の心も、ふんわりと春の陽気になっていたのでしょう。
本物の絵はSimpleで明快です。 そして個性的です。 モネは、どの絵を見てもモ
ネですし、 ローランサンの絵は一目見て、迷うことなくローランサンです。 そ
はボディートークで言えば、「生命の躍動」 が研ぎ澄まされて 「本来の自分」
が充分に発揮された表現だからです。
私たちの誰もが 「生命の輝き」で生きています。 もともと生命は〝ふつふつ”と湧き出て、元気になろう、 もっと弾もう、しているものなのです。 この元気になろうとする勢いの方向が生命の道、「 TAO」です。
そして私たちは宇宙の必然的な流れに乗って、オノズカラ誕生しました。両親、生活環時代等など、諸々の条件の下に与えられオノズカラの生命を素直に膨らませると、「本来の自分」 が育っていきます。
「本来の自分」 が育つには行動を決定するにはミズカラの意思が大切です。 私たちの人生は、与えられたオノズカラなる 「生命の躍動」 をベースに、ミズカラの意思決定によって創りあげている、と言えるでしょう。
* オノズカラなる「生命の運動」ミズカラなる 「本来の自分」=その人の個性
ところが、人生はそう易々とは順調に進みません。 現実には病気あり、人間
関係のいざこざあり、仕事の行き詰まりあり、能力の限界あり、社会のひずみあり、地球環境の問題ありで 「現実の自分」は、しこりやユガミをいっぱい身につけています。
ボディートークでは、あまりに悩みやストレスで身を固め、息を詰めている人
を「毒まんじゅう」と称して、体ほぐしで 「毒抜き」をします。 また体を揺すって、発声をすることで「毒の息」を解放します。 毒を抜くために泣いたり、わめいたり、足をバタバタさせたり、怒ったりの「毒抜き表現」は、人に見せるためのものではありません。
そういうのを踊りや演劇として舞台に乗せている人もありますが、本人は毒が抜けて快いかも知れませんが、 見せられるものではありません。 シコリやユガミをできる限り取り去って「本来の自分」に立ち戻り「生命の躍動」をふくらませて、個性に磨きをかけること、私は表現をこのように考えています。