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心も体も丸ごとで味わう

本物は体が納得する

私の子供時代にどうしても腑に落ちない歌が2つあっ た。一つは小倉百人一首の持統天皇の和歌である。

  春過ぎて  夏来にけらし  

   白妙の 衣干すてふ   天の香具山

問題はこの歌の解釈である。国語の先生によると、 意は「いつまでも春だと思っていたのに気がつくと夏が来たんだなあ。香具山のふもとに人々が夏服の白い衣を干しているよ」というふうになる。どの参考書もこれと似たりよったりの ことが述べられていた。

しかし、この解釈が私 にはピンと来ない。一体どこに歌としての面白さがあるのか。名歌だと先生は言うけれど、どこがいいのか。 詩的な表現のきらめきが全く感じられない。

疑問が解けぬまま受験時代が過ぎ、教師となってし ばらくしてテレビのドキュメントに一人の老人のことが取り上げられた。この人は 壬申の乱を実際に自分が歩いて確かめようとしていたのだが、彼の説によると天の香具山は現在の奈良の香具山ではなく、白山のことではないか、というのである。

白山だとすると、歌の解釈はガラリと変わる。即ち、この山の頂上は富士山のよ うに夏以外は年中雪をかぶっている。大意はこのようになる。「いつものように白山をながめてみると、アレ? 今日は頂に雪がない。ああ、いつの間にか春が過ぎて夏になったんだなあ。白山が雪の白い衣をどこかへ干しに行ったよ」

目の覚める思いだった。頂の雪が消えるのを、山が白い衣を干しに行ったとイ メージした感性は、現代にもそのまま通用するモダンでスマートな表現だし、それで夏の到来を知るという新鮮な驚きは、一字一句無駄のないこの歌に躍動している。 見事な作品だと私は脱帽の思いであった。

芸術作品は、心と体と頭がひとつになって味わえるものだと私は考えている。頭では理解でき、感心したとしても心や体が喜んでいないというのでは、芸術的価値の低 い作品だと思う。

腑に落ちるというのは、体のレベルで納得したということである。心うたれるという感動は、心の奥底から感情を揺すぶられるということである。私は「春過ぎて・ ・・』の歌をいっぺんに好きになってしまった。

子供時代に腑に落ちなかった、もうひとつの歌は「夏の思い出」である。「夏が 来れば思い出す・・・」という、誰もが口ずさむ日本の代表的な歌である。この歌は体のレベルで受け付けなかった。

何がそうさせたのか? テンポである。作曲者の速度指定は「ゆっくりと」である。しかし女性合唱などで「夏が来れば思い出 すと歌い出す、ほぼこのあたりで子供の私はもう退屈し始め、言いしれぬ気だるさを覚えていた。

歌詞は「はるかな尾瀬遠い空」と続く。頭の理解から進めよう。「思い出す」
のは「尾瀬」である。するとこのフレーズは「尾瀬」という歌詞に向かって息を高めていかねばなら ない。ところがゆっくりと歌い出すと、「尾瀬」に来るまでに「思い出す」で息が落ちてしまうのであ る。そうすると何を思い出すのかがわからないので 何とも間の抜けた言葉となってしまうのである。

解決方法は如何に? 2つある。ひとつはよほどの長い息と精神的緊張を持って「尾瀬」をエネルギーの頂点にすることである。もうひとつは軽い息であっさりと速い目に歌い出すことである。そして頂点の「尾瀬」でゆったりとテ ンポを落とせばいい。

私は後者の表現法を勧める。何故ならこの歌は大きな息の表現をすると、内容と 合わなくなるからである。ふと足下に目をうつすと水バショウの花が可憐に咲いていて、思わずうっとりと夢みるという愛らしい優美な歌である。

だから「水バショウの花が咲いている」というところは秘やかな息で自分に向かってささやくように 歌うのである。決して大きく歌って他人に水バショウを見においでと誘うところではない。

私のいうように少し速い目に歌い始めると、曲想がスーッと自然に湧いてきて、 この名歌を納得できるだろうと思う。是非皆さんも、この場でそっと口ずさんでい ただきたい。