自然な姿勢から、魅力ある声を
人はみな個性的な存在である。そして本来の自分の在り方をしっかりと実現している人は個性的であり、そのことに魅力がある。その意味で個性を磨くとは本来の 自分をよりよく発揮するということである。
個性とは似ても似つかぬものなのに、意外に個性と錯覚されがちなのがクセである。クセとは自分でないものをくっつけて、本来の自分の姿を歪ませているもである。
チック症状的な動作や貧乏ゆすりなどなら誰しもがクセと考え、あまり良い感情を抱かないが、 例えば反対意見を言ってからでなければ行動に移れない人や口をへの字に結んで黙々と仕事をし続ける人、または奇抜な格好をする人などをもって個性的と評価することがある。
しかし体ほぐしをしながらその 人の本来の姿をさぐっていくと、「ああ、これは自分に合わない環境から身を守るためのひとつの手段にすぎないのであって、この人独自の魅力ではないのだ」とわ かることも多い。
クセとは例えて言うと、床柱として使われている四角い竹である。タケノコは本 来丸いものである。そのタケノコに四方から板をくくりつけて四角く成長させるのである。全国一のタケノコ産地である長岡京近くに住んでいたことがあるので、四角い竹づくりをよく目にしたが、竹が伸びる毎に板をとりかえて、結構めんどうな作業を重ねている。だから床の間に柱として出来上がったものは相当な値がするらしい が、私の目からすればイビツで窮屈なものとしか見えない。
ずいぶん前、TVの人気司会者であった逸見さんがガンで亡くなったのも、本来の自分から遠く離れた仕事内容が原因だと思われる。彼はもともと内息の強い人であり、大真面目な人である。人柄の良さで人気者となったのだが、自ら人を笑わせるタイプではなかった。なのにお笑いタレントのようなキャラク ターを要求され続けて、イライラとクヨクヨをつのらせて遂にガンを患い還らぬ人 となってしまった。
歌の発声についても訓練しているつもりが、実はセッセとクセを身につけていた、 というようなことが多い。音楽大学などで「おなかを引き締めて! 胸を高く!」 と教えられた人がほとんどではないだろうか。明治の文明開化で西洋音楽をあわてて取り込もうとしたせいである。
イタリアへ歌の勉強をしに行った日本人にとってオペラの声は驚異であっだろうし、憧れの世界でもあっただろう。何がなんでもイタリア人のように歌い たいと、必死にマネをした結果が胸を張ることであったし、お尻を突き出すことであった。
しかし、イタリア人はそんな姿勢で歌ってはいない。自然に立っているだけである。ただ体型として胸が厚く、あるいは大きく、お尻も元々デカくてドッシリと構えているように見えるだけである。
日本人は日本人の自然な姿勢で、うちからの発声を出発点とするべきである。その中からイタリア人 には真似のできない日本人の魅力的な発声が生まれるのである。イタリアのオペラをイタリア人のように歌うのではなく、日本人の声でオペラの本質を表現すればいいのである。
個性とは本来の自分を発揮することである。バラがバラであり、ヒマワリがヒマ フリーであることである。個性の種は既に自分の中にある。個性は外から学ぶもので (いない。ひたすらクセを取り除き、自分の内から表現をどんどん引き出すことで、花も開くのである。
シリーズとして、ボディートー クの自由表現法のプログラムを紹介してい こうと思うと共に実践することで自然で豊かな個性を発揮していってほしい。