五感を通して伝わる暖かい心
赤ちゃんは、可愛い口元をポッと開いてアクビをします。その仕草はとても微笑ましく、思わず優しい気持ちになって、見ている私たちまで頬ずりしたくなります。赤ちゃんは周りの気配に敏感ですから、暖かく柔らかい空気に包ま れると、安心して眠りに入ります。
面白いのは、テレビの映像の中のアクビは赤ちゃんには伝わりません。もっぱら周りの生身のアクビに反応するの です。
赤ちゃんの神経はとてもナイーブです。その五感は、周りの人の声や動きをキャッチして、全身で、自然に、素直に適応していきます。迷いも躊躇もありません。動物学で言われている「擦り込み」なども、その代表的な例でしょう。
鳥の赤ちゃんが、生まれてすぐに目の前の動くものを見ます。その動く物体を母親だと認識するのです。その後、ずっとついてまわるようになる話は有名で すね。
世界中の赤ちゃんは、人種を問わず同じ声で泣きます。ところが大きくなる環境の中で、その周りの言葉を身につけていきますから、言葉をしゃべるようになると、どこの国の人だかを判別できるようになります。また言語によって発声の方法が異なりますから、息の仕方も微妙に変化していくのです。
赤ちゃんは「アーアー」とか「ンマンマ」とか、未 だ言葉にならない声を様々に出します。いわゆる喃語です。この発声は極めてプリミティブにして、言語を獲得するための準備にふさわしいのです。赤ちゃんは喃語を発しながら、周りの人々の言語に全身全霊で反応していきます。そっくりそのまま真似をするのです。なので、お母さんや家族の声に大変よく似てきて、電話をしてもお母さんなのか、娘さんなのか、よく分からなくなってきます。
2才半になる女の子が、おばあちゃんに連れられてグループレッスンにやってきました。大人たちが互いに行っている「体ほぐし」を興味深そうに見ていました。いつの間にか私の横にパタッとうつ伏せに寝ました。「みんなと同じように、背中をほぐして!」という無言の催促です。幼児の背中をほぐすに は、特に繊細なタッチが必要です。私は、このタッチを《赤ちゃんを抱く手》 と命名して、かつて女子短大生に教えていました。すべての人に習得してほし い「生命のふれあい法」なのですが、特にこれから母になる女性には必要不可欠な能力です。
帰ってから、おばあちゃんが女の子をほぐそうとしますと、その子はムクッ と起きてきて、「おばあちゃん、城石先生はこんなにしていたよ」と言って、 代わっておばあちゃんの背中を揺すりました。そのタッチの感触はもとより、「 手の当て方、座り方、雰囲気が、まるで私に生きうつしのようでした」と、おばあちゃんが報告してくれました。
私の手の感覚は、女の子の皮膚を通して、 息遣い共々に正確に伝わったのだ、と思います。「脳皮同根」と言われるよう に、体で感じたことは、そのまま脳にイメージとなって刻み込まれるのです。
私は今、看護学校でボディートークの授業をしていますが、心配なことがあります。ナースの卵達は熱心に授業を受けてくれます。とても真面目なのです。 けれど、熱意を込めて話しかけても、何だか機械に向かってしゃべっているような不思議な感覚になる時があります。
彼女たちの眼は、確かに一斉にこちらを見ています。ですが、何か携帯電話のメールを見ていたり、映像の画面を見ているような眼差しに感じるのです。山びこは「オーイ」と呼べば、「オーイ」と返してくれます。しかし彼女たちは、私の呼びかけに対して、応える反応が希薄なのです。眼の輝きが乏しいと言いましょうか、表情の底が浅いと言いましょうか、言葉は悪いのですが「のっぺり」とした印象を受けるのです。
これは一体どうしたことでしょうか。実は 1990 年以降に生まれた子ども達 に見られる傾向なのですが、育った環境が圧倒的に、作られた映像、作られた音、遊び方の決まっているオモチャ等々、反自然的なものに囲まれてきたので す。生身の人の声や動き、人間的なふれあいの場が乏しいのです。
マタニティ講座の中で、「赤ちゃんには毎晩、子守歌をうたってくださいね」と言いますと、「わかっています。子守歌のCDを聞かせています」との答え。「いいえ、お母さんの声が必要なのです」と言いますと、「では私が歌って録音しておきます。」と澄ましておっしゃる若いお母さんもいるので す。
びっくりした私は「お母さんが毎晩、枕元で歌ってあげることが大事なのですよ」と《生身のふれあい》こそ赤ちゃんの心と体を育てるのだ、と説明し ました。