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それぞれの息がその人の生き方

生きている人間は例外なく息をしている。しかも息の仕方は人によって異なる。顔や姿が十人十色であるよう に、息の在り方も実に個性的なのである。そこで私は、 人それぞれの息がその人の生き方であると考えている。

心の暖かい人は息も暖かい。暖かいということは実際 に温度が高いのである。なぜ高くなるかというと、暖かい心の人は、他人を受け入れる息なので気管がリラックスしている。その気管を息はゆったりと通って体温を充分に保ちながら出てくる、だから暖かいのである。

反対に心の冷たい人は息も冷たい。冷たい心の人は他人を拒否する息なので気管が緊張している。その気管を息は早くスッと通り過ぎるので体温をあまり拾うことができない。 だから温度が低いのである。

このことを見抜けなかったばかりに一人の少年の運命が大きく悲劇へと変わってしまった実例を述べよう。
ずいぶん前の朝日新聞に掲載された記事で「子供に体罰は必要ない」と題された手記である。手記の主をOさんとしよう。現在は六十歳代の理容業を営む男性である。 話はOさんの少年時代にまで遡る。

O少年は両親に先立たれ、身寄りもなく近所の人に面倒を見てもらっている、寂 しい子供であった。小学校に入って間もなくの頃、体育の授業が終わって先生に 「マットを片付けてくれ」と頼まれた。先生に初めて声を掛けてもらってO少年はすごく嬉しかった。ところが思わず口に出た返答は「チェッ」という舌打ちであっ た。「チェッとは何事か!」とその場で往復ビンタを張られ、O少年は吹っ飛んだ。

心はうれしくて仕方がなかったのに、どうして「チェッ」と言ってしまったのか、 未だに解せない、Oさんは書いている。私の解釈はこうだ。O少年は愛情に恵まれず、他人を警戒しながら育った。また喜びを素直に表現できる環境でもなかったようだ。

だから思いがけず、先生に声を掛けてもらった喜びが大きければ大きいほど、 その気持ちを押し隠そうとする自己規制が働き、その言葉が「チェッ」だったのだ。
ビンタだけでは収まらず、放課後、職員室の前でバケツを持って立たされた。 夕暮れになってやっと帰宅を許された。少年の心はズタズタだった。悔しさのあま り夕食の茶碗を壁に投げつけ、そのまま泣き寝入りしたのだそうだ。

翌朝からは学校へ行く気はせず、そうかといって世話をしてくれている近所の人 の手前もあって、ノロノロと学校の裏山に登った。そして校庭をぼんやりと眺めて 一日を過ごし、下校時になると人目を気にしながらコッソリ帰宅した。そんな日が半年ほども続き、やがて転げ落ちるように悪への道を走っていったとOさんは綴っ ている。

教育の難しさを考えさせられる事例であるが、この先生が少なくとも子供を表面 の言動で判断せず、奥にある本音を捉えようとする人であったなら、このような悲劇は起こらなかっただろう。そのような先生であっ たなら「チェッ」と発せられた声が、喜びの息であ ることを見抜けた筈であるし、例え見抜けなくとも、 子供の目が、仕草が指示を受け入れていることを容易に直感できたことであろう。

鈍感な言動が繊細な心を傷つけるように、冷たい 心は暖かい心を傷つける。そして冷たい心はその固さ故に、柔らかい幼い心の微妙な振る舞いをキャッチすることができない。 幼い子供への体罰がこれほどまで悲惨な人生へと追い込んでしまう実体験から、 Oさんの結論は「従って、子供に体罰は必要ない」ということになる。Oさんの青年期はともかく、現在はお店を持って立派に暮らしておられるのが、せめてもの救いである。