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ボディートークは必然的に生まれた

背中は、その人の生き方を無言のうちに教えてくれる。

それゆえに 「レ・ミゼラブル」の主人公、ジャン・バルジャンの物語は見事に背中のドラマだといえるだろう。世間を逆恨みし、極悪人への道を決意して いるジャン・バルジャンの背中を、彼を気持ちよく受け入れた牧師の背中との対比は前回述べた。

話を先へ進めよう。夕食の接待を受け、ベッドを準備してもらったにもかかわらず、ジャン・バルジャンは夜中にそっと起き出して、銀の燭台を盗み出す。 ジャン・バルジャンを極悪人になるにちがいないとにらんで後をつけてきたジャベル警視にすぐとらえられる。

ところが、事情を察知 した牧師は「燭台はこの方に差し上げたのです。それにもう一つお忘れです よ」と、さらに別の燭台をジャン・バルジャンに手渡す。

かつてあり得なかった愛の力に困惑しながら、彼は行方をくらましてしまう。そして十数年後、牧師の愛の力で立ち直ったジャン・バルジャンは、 今は努力の末、実業家となり、人望を得て市長となっている。このときの市長の背中をどのようにつくるか。

背筋をのばし、肩に少し力みを入れる。しなやかに伸びた腰つきは行動力と意思の強さを表す。背中をまっすぐにのばすのは私欲にとらわれないこと。肩の力みは責任の重さを表す。いわゆる「肩の荷が重い」というしこりである。

この堂々たるジャン・バルジャンの市長が、町なかで事故の場面に出くわす。ぬかるみの中で一人の男が馬車の下敷きになっている。車輪は重くて誰も持ち上げることができない。折しも通りかかったジャベル警視は「この車を持ち上げることのできる男はジャン・バルジャンしかいない」とつぶやく。

そのつぶやきを耳にしながら、市長はフロックコートを脱ぎ捨て、満身の力を込めて車輪を持ち上げる。こ のときの背中こそクライマックスである。市長の背中、腰から一転して、あの忌まわしいツーロン刑務所の ジャン・バルジャンの姿勢に戻るのだ。下敷きになった男を救い出した時の一瞬の背中。腰を内へ固め、憎悪をむき出しにして重労働に耐えた、あの背中が再現されるのである。

すぐさま市長の背中に戻しはしても、時すでに遅し。ジャベル警視は市長こそジャン・バルジャンだと直感してしまう。そして執拗な追跡劇が始まる。
ドラマは全身表現であるから、俳優は心と体の結びつきをしっかりと理解することが必要である。

そして、このジャン・バルジャンの例のように、背中の無言の表現が、舞台でどれほど大きな役割を担うかもご理解い ただけたと思う。
心身一如といわれるように、心の悩みは具体的に体にしこりとなって表れる。このことを発見したのは、高 校生の音楽授業を指導する中で、生徒の背中に表れる失恋のしこりを知ったことに始まった。

生徒の相談を、背中をほぐしながらカウンセリングするうちに、やがて体に表れる自己顕示欲のしこり、家庭不和のゆがみなどがわかるようになり、大人の相談も受けるようになって、肩の荷の重さや、恨み、人に対する気遣いなどのしこりの表れ方に確信を持つようになった。

同時にそのころ、脚本を書いたり、踊りの振り付けをしたりして、高校のミュージカル部や大人の劇団も指導に入っていたから、演技についても強い関心があった。

あるとき、演技指導の中で、体にしこりをつくると、そのしこりなりに確実に心が変化するということを体感した。この原理がわかると話は早い。自分で体のあちこちにしこりを作ってみて、そのしこりがどんな心を生むのか、じっと体の声に耳を傾けるだけで、心と体の結びつきが 次々とわかるのだから。

こうしてボディートークの体系は発声法や表現法の分野から進ん でいったが、内容をより掘り下げ、裾野を広げるほどに、人と人 の関係が体の問題であることが解明されてきてボディートーク人間関係法ができあがり、これらすべてが心と体の健康、すなわち自然体法と結びつくことになったのである。

ボディートークはその意味で、人生を生き生きと充実して活動できるようにするための土台となるものである。人類は四つ足動物から生存し生きて生活するための知恵の力によって直立歩行し、文明を築き上げてきた。そして今、知恵の力によって自らの心と体を健康にする方法を、生み出さなければならない宿命を持つ。ボディートークは生まれるべくして生まれた。21世紀への人類の知恵であると思う。