背中は人生を物語る
ジャン・バルジャンが牢獄を出たとき
背中は人生の地図である。その人の生き方がそのまま刻み込ま れている。従って背中のしこりやゆがみを見れば、その人がどの ように生きてきたかがわかる。
その意味で背中と心は一致しているから、逆に、例えば背中に 恨みのしこりを意識的に作ってみると人を恨む気持ちになる。 当然ながら声も恨みがましくなる。このことが演技表現の大切なポイ ントとなる。
ある時「レ・ミゼラブル」というミュージカルを観に行った。 ビクトル・ユゴー原作のジャン・バルジャンの物語である。
舞台は暗く、陰うつなツーロン刑務所から始まった。
極貧の中にも実直に暮らしてい たジャン・バルジャンが、家族のため一斤のパンを盗んで捕らえられ、二十年間も幽閉されていた牢獄である。その牢獄の門を前に、刑期を終えたジャン・バルジャンが布袋を背負って立っている。インパクトの強いオープニングである。
ところが俳優の演じる、このジャン・バルジャンが、どう見 てもジャン・バルジャンに見えない。何故かというと、背中をシャンと伸ばして堂々と立っている からである。これは刑期を終えた男の基本姿勢ではない。
演劇には各々個有の表現理念があるから、必ずしも私の言う通りに演じる必要はないが、ジャン ・バルジャンに関しては特に背中の表現が大きな意味を持つドラマだと思う。
そこでボディートーークの原理に従って、このドラマを表現するとどうなるか、皆さんも体を動か しながら体験していただきたい。
ジャン・バルジャンの基本姿勢は少なくとも3つある。1つは重労働の腰付きである。「あー疲 れた」と重い息を落とした時、それが肉体労働の疲れであり、犬が尻尾を巻き込んだような腰付きとなる。過酷な肉体労働が長年、来る日も来る日も続くと、腰を縮めたまま筋肉は硬くなって、 尻尾を巻いたような姿勢は固定される。
当然、背中は丸くなり、アゴを前へ突き出すことになる。2つめは憎悪の背中である。「史記」の著作で有名な司馬遷が牢獄で無念の最後を遂げた時、背中にコブが出たという話が残っているが、このコブは恨みのしこりである。肩甲骨の下部に表れる。
ジャン・バルジャンはたった一切れのパンを盗んだために20年間も牢獄に捕らえられたのであ る。当然世間を激しく憎んでいる。そして出獄の暁には大悪人になってやろうと密かに決意してい る。それだからこそ、ジャベル警視が初めから目を付けていたのだ。
憎悪のしこりを作るには背中の真ん中、胸椎8番の両側をウンと息を詰めて硬くする。従って憎悪に狂う人間の息は詰まっていてきゅうくつである。
基本姿勢の3つめは目付きだ。憎悪であっても、社会に対して正面から戦うのであれば、目付きも真っ直ぐであるが、ジャン・バルジャンは腹黒く、復讐してやろうと考えている。そのため世間を斜めに見ている。この気持ちになると、体は半身に構え、横目で相手をにらむようになる。
皆さんも立ち上がってこの3つの基本姿勢を試してみよう。まず骨盤を内へ傾けて、腰に力を入れ背中の中央を硬くして息を詰める。そして半身に構えて横目で前をにらむ。その姿勢で布袋 を肩にかける。これがジャン・バルジャンの出獄の時の姿勢である。
刑務所を後にしたジャン・バルジャンは、とある教会に一夜の宿を恐る恐る申し出る。にこやかに彼を迎え入れた牧師はどのような背中をしていたか。もちろんわだかまりのないスーッと伸びた背中である。
舞台での牧師は力みのない、真っ直ぐな姿勢で演じられていた。ところが主役のジャン・バルジャンも背を伸ばしスラッと立っていて、おまけにこちらの方がグンと背の高い俳優だから、あまりに堂々としていて、どちらが牧師の役なの か一瞬とまどってしまう。やはりスープをむさぼるようにして飲むジャン・バルジャンは、3つの基本姿勢で演じないと牧師との関係が表現できないのではないか。
さて、この背中がどのように変わり、やがてクライマックスでどのようなドンデン返しになるの と、それは次回で述べることにしよう。